歴史を歩く214
44第二次世界大戦
2 ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その2)

モレニ油田(1920年代) ルーマニア中南部ドゥンボヴィツァ県・Wikipediaより
1940年6月末、ドイツが西部戦線に全力をあげている間に、ソ連はルーマニアに侵略し、ベッサラビアを占領しますが、当時ドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、石油の供給が滞れば、戦争遂行がきわめて困難となる為、ソ連のルーマニア侵略に危機感を抱いたドイツは、1940年10月、ルーマニアに侵入しました。

クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊・在イギリス軍により重大な被害を受ける。墜落する機影はユンカースJu52/3mと推定・Wikipediaより
1940年9月27日、ドイツは日独伊三国同盟を締結し三国の軍事面での提携を強化した上、同年11月にハンガリーとルーマニアを三国同盟に参加させ、更に翌1941年3月初頭にはブルガリアを三国同盟に加え、ドイツ軍はブルガリアに進駐しました。
又3月末にはユーゴスラヴィアも三国同盟に参加させますが、ユーゴスラヴィアで政変が起こり、ユーゴスラヴィアがいったん加入した三国同盟を脱退すると、ドイツは1941年4月にギリシアとユーゴスラヴィアに侵入し、これを制圧します。

ナチス式の敬礼を行う占領地の少年団
ドイツのバルカン作戦は1941年4月末迄に終了しますが、ドイツのバルカン進出は独ソ関係を緊張させ、ソ連はドイツのバルカン進出に備えて1941年4月13日に日ソ中立条約を締結します。
日ソ中立条約は、南方進出を図る為に北方の安全を確保したい日本と、ドイツのバルカン進出に備えて背後の安全の確保を図ろうとするソ連が、中立の維持と相互不可侵を約した条約で有効期間は5年でした。

バルバロッサ作戦・侵攻するドイツ軍部隊
1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソ連に侵入を開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦(独ソ戦争)が始まります。
ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニアの各軍も動員し、強力な戦車部隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入しました。
(この情報は、事前に東京のゾルゲ諜報組織を通じて、モスクワに送られていましたが、スターリンは、ゾルゲを2重スパイとして疑っており、無視されていた)

レニングラード包囲戦・索敵監視任務に付くソビエト軍女性兵士
ドイツ軍は電撃戦によって快進撃を続け、レニングラードを包囲し、モスクワに迫り、ウクライナ地方を占領、10月初頭にはモスクワの西方約60kmに迄迫りますが、11月には猛烈な寒波が到来し、11月下旬からのモスクワ総攻撃はソ連軍の抵抗と冬将軍に阻まれ、遂に12月6日モスクワから退却を余儀なくされます。

レニングラード解放
独ソ戦が始まると、イギリスはソ連と相互援助条約を結び(1941年7月)、アメリカもイギリスと共にソ連に対して武器貸与等の援助を開始します。
アメリカは、既に1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)を成立させ、イギリスに武器や軍需品の援助を行っていましたが、ソ連にも同様に適用し、これに対してソ連はアメリカ・イギリス等の連合国との協調を強める為に、1943年5月にはコミンテルンを解散しました。

ソビエト軍に供与されたM4シャーマン戦車
こうして第二次世界大戦は独ソ戦の開始以来、ファシズム諸国と反ファシズム諸国との戦い(ファシズム対民主主義の戦い)と成りました。
独ソ戦は冬にはいると寒気に手馴れたソ連軍の抵抗とその猛烈な寒さの為、遂にドイツ軍の進撃が止まり、ドイツが本来計画していた短期決戦は失敗に終わります。

ドイツ軍により強制労働に従事する捕虜
戦争の長期化と共にドイツは戦時経済を支え、更に戦時生産力を増強する種に占領諸地域の資源や労働力を収奪し、特に東方の占領諸地域から食料・原料・石油・鉱石・機械等を強制収容し、兵員の徴募の強化や軍需産業の拡大によって労働力不足が深刻になると、全占領地域で外国人労働者を強制連行し、強制労働に服させました。

強制移住させるユダヤ系婦女子
更にナチスの人種差別政策を占領地に於いても実行し、劣等人種としたユダヤ人やポーランド人を主とするスラヴ系住民に対して強制移住・強制収容所への収容・大量殺戮を行い、各地からアウシュヴィッツをはじめとする多くの強制収容所へ送られたユダヤ人は、労働に耐えうる強健な者は強制労働に服させ、そうでない者は抹殺されていきます。

フランスのレジスタンス・襲撃を受けるドイツ軍車両
こうしたドイツの占領政策に対する抵抗運動が各地でさまざまな形で起り、特にフランスのレジスタンスとティトーのパルチザンが有名です。
レジスタンスはファシズム支配に対する非合法抵抗運動を意味しますが、特にフランスでドイツ軍とヴィシー政権に対して行われた抵抗運動が最も有名で、1944年夏のフランス解放に大きな役割を果たしました。

鉄道線路を爆破するパルチザン兵士
又パルチザンは武器や装備の劣る不正規軍が行うゲリラ戦術で、正面決戦を避けて敵を消耗・疲弊させる為に奇襲や後方撹乱を行い、ユーゴスラヴィアのティトー(1892年~1980年)が行ったパルチザン闘争が最も有名です。
ティトーはユーゴスラヴィアがドイツに降伏した直後からパルチザン部隊を編成し(1941年6月)、ドイツ占領軍に対してパルチザン闘争を指導しました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年8月18日小倉南区若宮神社境内
2 ドイツの短期決戦の失敗と占領地支配(その2)

モレニ油田(1920年代) ルーマニア中南部ドゥンボヴィツァ県・Wikipediaより
1940年6月末、ドイツが西部戦線に全力をあげている間に、ソ連はルーマニアに侵略し、ベッサラビアを占領しますが、当時ドイツはルーマニアから大量の石油を輸入しており、石油の供給が滞れば、戦争遂行がきわめて困難となる為、ソ連のルーマニア侵略に危機感を抱いたドイツは、1940年10月、ルーマニアに侵入しました。

クレタ島に降下するドイツ軍空挺部隊・在イギリス軍により重大な被害を受ける。墜落する機影はユンカースJu52/3mと推定・Wikipediaより
1940年9月27日、ドイツは日独伊三国同盟を締結し三国の軍事面での提携を強化した上、同年11月にハンガリーとルーマニアを三国同盟に参加させ、更に翌1941年3月初頭にはブルガリアを三国同盟に加え、ドイツ軍はブルガリアに進駐しました。
又3月末にはユーゴスラヴィアも三国同盟に参加させますが、ユーゴスラヴィアで政変が起こり、ユーゴスラヴィアがいったん加入した三国同盟を脱退すると、ドイツは1941年4月にギリシアとユーゴスラヴィアに侵入し、これを制圧します。

ナチス式の敬礼を行う占領地の少年団
ドイツのバルカン作戦は1941年4月末迄に終了しますが、ドイツのバルカン進出は独ソ関係を緊張させ、ソ連はドイツのバルカン進出に備えて1941年4月13日に日ソ中立条約を締結します。
日ソ中立条約は、南方進出を図る為に北方の安全を確保したい日本と、ドイツのバルカン進出に備えて背後の安全の確保を図ろうとするソ連が、中立の維持と相互不可侵を約した条約で有効期間は5年でした。

バルバロッサ作戦・侵攻するドイツ軍部隊
1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、突如ソ連に侵入を開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦(独ソ戦争)が始まります。
ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニアの各軍も動員し、強力な戦車部隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入しました。
(この情報は、事前に東京のゾルゲ諜報組織を通じて、モスクワに送られていましたが、スターリンは、ゾルゲを2重スパイとして疑っており、無視されていた)

レニングラード包囲戦・索敵監視任務に付くソビエト軍女性兵士
ドイツ軍は電撃戦によって快進撃を続け、レニングラードを包囲し、モスクワに迫り、ウクライナ地方を占領、10月初頭にはモスクワの西方約60kmに迄迫りますが、11月には猛烈な寒波が到来し、11月下旬からのモスクワ総攻撃はソ連軍の抵抗と冬将軍に阻まれ、遂に12月6日モスクワから退却を余儀なくされます。

レニングラード解放
独ソ戦が始まると、イギリスはソ連と相互援助条約を結び(1941年7月)、アメリカもイギリスと共にソ連に対して武器貸与等の援助を開始します。
アメリカは、既に1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)を成立させ、イギリスに武器や軍需品の援助を行っていましたが、ソ連にも同様に適用し、これに対してソ連はアメリカ・イギリス等の連合国との協調を強める為に、1943年5月にはコミンテルンを解散しました。

ソビエト軍に供与されたM4シャーマン戦車
こうして第二次世界大戦は独ソ戦の開始以来、ファシズム諸国と反ファシズム諸国との戦い(ファシズム対民主主義の戦い)と成りました。
独ソ戦は冬にはいると寒気に手馴れたソ連軍の抵抗とその猛烈な寒さの為、遂にドイツ軍の進撃が止まり、ドイツが本来計画していた短期決戦は失敗に終わります。

ドイツ軍により強制労働に従事する捕虜
戦争の長期化と共にドイツは戦時経済を支え、更に戦時生産力を増強する種に占領諸地域の資源や労働力を収奪し、特に東方の占領諸地域から食料・原料・石油・鉱石・機械等を強制収容し、兵員の徴募の強化や軍需産業の拡大によって労働力不足が深刻になると、全占領地域で外国人労働者を強制連行し、強制労働に服させました。

強制移住させるユダヤ系婦女子
更にナチスの人種差別政策を占領地に於いても実行し、劣等人種としたユダヤ人やポーランド人を主とするスラヴ系住民に対して強制移住・強制収容所への収容・大量殺戮を行い、各地からアウシュヴィッツをはじめとする多くの強制収容所へ送られたユダヤ人は、労働に耐えうる強健な者は強制労働に服させ、そうでない者は抹殺されていきます。

フランスのレジスタンス・襲撃を受けるドイツ軍車両
こうしたドイツの占領政策に対する抵抗運動が各地でさまざまな形で起り、特にフランスのレジスタンスとティトーのパルチザンが有名です。
レジスタンスはファシズム支配に対する非合法抵抗運動を意味しますが、特にフランスでドイツ軍とヴィシー政権に対して行われた抵抗運動が最も有名で、1944年夏のフランス解放に大きな役割を果たしました。

鉄道線路を爆破するパルチザン兵士
又パルチザンは武器や装備の劣る不正規軍が行うゲリラ戦術で、正面決戦を避けて敵を消耗・疲弊させる為に奇襲や後方撹乱を行い、ユーゴスラヴィアのティトー(1892年~1980年)が行ったパルチザン闘争が最も有名です。
ティトーはユーゴスラヴィアがドイツに降伏した直後からパルチザン部隊を編成し(1941年6月)、ドイツ占領軍に対してパルチザン闘争を指導しました。
続く・・・

ジロくんの思い出:平成29年8月18日小倉南区若宮神社境内
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2019-08-28 22:17 編集