fc2ブログ
2009/11/06

歴史の?その31

<インカの秘宝>

inca_convert_20091106194124.jpg

 大航海時代、16世紀の初頭、ヨーロッパ人は初めて南アメリカ大陸の太平洋岸の到達しました。
当時、その太平洋側のアンデス山脈一帯の地域(現在のコロンビア・エクアドル・ペルー・ボリビア・チリ)には「インカ帝国」(正式には、タワンティン・スーユ:四つの地方から成る国)が存在していました。

 インカ文明は、鉄器を知らず、新石器文明と呼ばれる時代でしたが、金・銀・銅の細工は巧みで、是等を用いた細工物の他、土器、織物にも優れ、頭蓋骨切開による外科手術もする事が、出来たと伝えられています。
ところが、インカ人は、車輪の概念が無く、文字も持たない為、書物としての歴史書は存在していません。
現在の歴史書物は、スペイン人の征服後、彼等からローマ字の読書きを習得した、一部のインカ人が彼等の言葉で在る「ケチュア語」の表音に基づいて記されたもので厳密な歴史書とは言えませんが、伝わっている歴代王(インカ)の名前から13代迄遡る事ができます。

 このインカ帝国に最初に足を踏み入れたヨーロッパ人は、スペイン人フランシスコ・ピサロで、彼はスペインの地方貴族の出身ですが、色々と問題の在る人物でも在りました。
「新大陸」の何処かに「黄金郷(エル・ドラド)」が存在すると予てより噂が在り、ピサロをその黄金を求めていたのでした。
南アメリカの太平洋岸を数度に渡って探検し、1528年の航海では、現在のペルー迄到達しますが、彼はこの探検航海で、現在のツンベスを基点にアンデス山脈の内部迄入り「黄金郷」が実際に在る事を確信し、時のスペイン国王カルロス一世に探検援助を申し出、1531年ペルー探検(征服?)に出発します。

 さて、スペイン人の来航する少し前、インカ帝国内で、11代皇帝ワイナ・カパックが崩御し、その後継者を巡って、長男ワスカルと次男アタワルパの間に王位継承問題が発生し、一時は12代皇帝に即位したワスカルをアタワルパが破り、自ら13代皇帝と成りました。
この内乱もインカ帝国が、容易くピサロに征服される遠因と成りますが、インカには、鉄製の武器は皆無で在り、例え20万の軍隊を擁していても、僅か180人のスペイン兵の鉄砲と37頭の馬には、太刀打ちできませんでした。

 ピサロは、以前にアステカ王国を征服(1526年)した、エルナン・コルテスから「王を生け捕りにすれば、征服は出来る」旨の教示を受け、アタワルパを妖計にかけます。
1532年11月14日カハマルカの町で、ピサロとアタワルパの会見が行われる事に成り、ピサロは、皇帝アタワルパを賓客として宴席に招くと、カトリックの僧侶が、アタワルパに「我々は、カトリックの布教の為にこの地を訪れた」と言いながら、聖書をアタワルパに手渡しますが、文字を知らない彼にとって、聖書は何の意味を持つものでは無く、其れを床に落としました。
この瞬間、ピサロは、アタワルパが神を汚したとして、彼を捕らえ、人質にしてしまいます。

 アタワルパは、自分を許してくれるなら、今自分の捕らえられている部屋を黄金で埋め、隣の部屋を銀で埋めると言い、是を2ヶ月で実行すると約束します。
皇帝は、国中に御ふれを出し、インカの民は、皇帝の為に金銀を持ってカハマルカの町を目指しました。
財宝は、次第に集まって行きましたが、約束の量に成るには時間が掛かり、ピサロは、こうして時間を掛けてインカ人は、軍隊を整え反撃の準備をしているに違い無いと疑います。
彼は、アタワルパを形式だけの裁判にかけ、1533年7月26日処刑してしまい、ピサロは、三男マンゴをインカ皇帝としましたが、事実上この時、インカ帝国はスペイン人に征服されたのでした。

 皇帝アタワルパの処刑によって、カハマルカに向かっていた財宝の輸送は、勿論停止し、是等はスペイン人の目の届かぬ所に隠されてしまいます。
アタワルパは、処刑に際し、身代金を倍にしても良いと言ったと伝えられますから、財宝の量は、膨大なもので在ったと思われます。

 是を一般に「インカの秘宝」呼び、隠された財宝を求めて、多くの人間がアンデス山脈に分け入りましたが、自然の要害に阻まれ、現在迄「インカの秘宝」は発見されていません。
アタワルパの処刑によって、財宝は帝国の諸所の分散されて埋蔵された為、現在迄まとまった量の財宝が発見された事が無いと思われます。

続く・・・
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント