歴史の?その43・序文
<明朝と清朝>

明朝と清朝は、中国史上最後の王朝です。
明朝は、漢民族の皇帝を戴き、清朝は満州族(ツングース系)の皇帝を戴きながら、ともに絶大な皇帝権力を行使した点では、違いが有りません。
その繁栄期間は、ヨーロッパの時代に照らし合わせると、ルネサンスの初期から、ナポレオンの時代迄にも及びます。
明の太祖、洪武帝は、漢の高祖と同じく平民より、立ち上がりました。
歴代の皇帝の中でも、不世出の英雄であり、中国の伝統に従って、国家としての機能を整備し、皇帝の権力をそれ以前の皇帝に比較しても、比類無いもの教化しました。
しかし洪武帝は、一つの誤算を犯していました。
帝室の権力を強化する余りに、皇帝で無い諸皇子に、大きな権力を待たせすぎた結果、洪武帝亡き後、直ちに燕王の反乱(靖難の変)が発生し、建文帝は倒されてしまいます。
燕王は即位して、永楽帝となり、彼も又偉大な帝王であり、此処に明朝の基盤は形成されたと言っても過言では有りません。
しかし、永楽帝の後は、内外の諸政策が尽くその効果を逸し、明朝の国力を衰退の一途を辿ります。
17世紀、明朝内部では、しばしば内乱が発生し、外部からは、満州族の領内進入は相次ぎました。
1644年、明朝は内乱により自滅し、是を機に満州族は北京に入城します。
此処に清朝による、漢民族支配が始まりました。
清朝の隆盛期の皇帝と言えば、康熙帝・雍正帝・建隆帝の三代であり、17世紀後半から、19世紀初頭に至る期間に当り、中国の王朝は、満州族支配の基に、最大の領土を誇るに至りました。
しかし、西方からヨーロッパ人の勢力も、次第に中国に迫り、既にインドは、大英帝国に屈し、清朝も、1842年阿片戦争に破れ、半植民地化の道を辿る結果と成りました。
東方からは、日本の大陸支配が始まり、朝鮮を圧迫し、20世紀初頭には、終に清朝さえも屈服させます。
時の皇帝は、光緒帝、実権を掌握するのは、西太后で、皇帝は操り人形に過ぎなかったのです。
清朝は其れ迄、「眠れる獅子」と呼ばれていましたが、20世紀に及んで、新しい中国を目指す革命運動が、活発となり、その激動の歴史の中で歴代の皇帝は、不可解な死を遂げて行きます。
もはや、清朝の命脈も尽き様としていました。
続く・・・

明朝と清朝は、中国史上最後の王朝です。
明朝は、漢民族の皇帝を戴き、清朝は満州族(ツングース系)の皇帝を戴きながら、ともに絶大な皇帝権力を行使した点では、違いが有りません。
その繁栄期間は、ヨーロッパの時代に照らし合わせると、ルネサンスの初期から、ナポレオンの時代迄にも及びます。
明の太祖、洪武帝は、漢の高祖と同じく平民より、立ち上がりました。
歴代の皇帝の中でも、不世出の英雄であり、中国の伝統に従って、国家としての機能を整備し、皇帝の権力をそれ以前の皇帝に比較しても、比類無いもの教化しました。
しかし洪武帝は、一つの誤算を犯していました。
帝室の権力を強化する余りに、皇帝で無い諸皇子に、大きな権力を待たせすぎた結果、洪武帝亡き後、直ちに燕王の反乱(靖難の変)が発生し、建文帝は倒されてしまいます。
燕王は即位して、永楽帝となり、彼も又偉大な帝王であり、此処に明朝の基盤は形成されたと言っても過言では有りません。
しかし、永楽帝の後は、内外の諸政策が尽くその効果を逸し、明朝の国力を衰退の一途を辿ります。
17世紀、明朝内部では、しばしば内乱が発生し、外部からは、満州族の領内進入は相次ぎました。
1644年、明朝は内乱により自滅し、是を機に満州族は北京に入城します。
此処に清朝による、漢民族支配が始まりました。
清朝の隆盛期の皇帝と言えば、康熙帝・雍正帝・建隆帝の三代であり、17世紀後半から、19世紀初頭に至る期間に当り、中国の王朝は、満州族支配の基に、最大の領土を誇るに至りました。
しかし、西方からヨーロッパ人の勢力も、次第に中国に迫り、既にインドは、大英帝国に屈し、清朝も、1842年阿片戦争に破れ、半植民地化の道を辿る結果と成りました。
東方からは、日本の大陸支配が始まり、朝鮮を圧迫し、20世紀初頭には、終に清朝さえも屈服させます。
時の皇帝は、光緒帝、実権を掌握するのは、西太后で、皇帝は操り人形に過ぎなかったのです。
清朝は其れ迄、「眠れる獅子」と呼ばれていましたが、20世紀に及んで、新しい中国を目指す革命運動が、活発となり、その激動の歴史の中で歴代の皇帝は、不可解な死を遂げて行きます。
もはや、清朝の命脈も尽き様としていました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント