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2009/12/17

歴史の?その69

<ナポレオンの財宝:中篇>

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◎悲劇のモスクワ撤退

 私達が、ナポレオン・ボナパルトに関して抱くイメージは、戦争、軍隊と云った荒々しい面ですが、一方、国民投票によって皇帝に就任した彼は、カトリック信仰を解禁し、フランス銀行を設置し、初等・中等教育拡充の為学校を大々的に増設し、メートル法を制定し、個人の自由平等を柱とする民法典を作りと云った面は、佳麗な戦闘記録に隠されて、つい見落とされがちです。

 同様にモスクワからの雪の退却についても、もっぱら彼の悲劇的運命のみが強調され、モスクワで“取得した物”については、語られる事は少ないのも事実ですが、“奪われた人々”に取っては、忘れる事は出来ない事も事実なのです。
帝政ロシアに在っては、“ナポレオンの財宝”探索の長い歴史が存在します。

◎史実に残る財宝

 ナポレオンが、ヨーロッパ各国から徴兵した、大混成遠征軍が、アレクサンドル一世統治下の都モスクワに入城したのは、1812年9月15日、ロシア軍は焦土作戦を展開し、火を放ってモスクワから撤退します。

 缶詰と言う“近代食品”はナポレオンがこの遠征の為に、携行用保存食のアイデアを公募して生まれたものと云われています。
しかし、結果的に食料欠乏が、ナポレオン軍の致命的失策となり、途中の町にもモスクワにも、ロシア軍の撤退した後には、一粒の麦も残されていませんでした。
そして迫り来る“無敵の冬将軍”後年、ナチス・ドイツ機械化部隊を尽く破滅に持ち込んだロシアの冬。
飢えと寒さに追われて、ナポレオン軍は空しく、モスクワから撤退します。
ニーメン川を渡って進軍を開始した時、60万人を数えた遠征軍は、モスクワ撤退時10万人、兵站基地と成ったスモレンスク迄到達した時5万人、ベレジナ川を渡ってロシアの勢力圏を脱した時には、3万人に満たない数でした。

 この数字は、遠征軍の帰路が如何に悲惨なものだったかを、物語っていますが、ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

続く・・・

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