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2009/12/20

歴史の?その72

<シオンの密約書>

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 帝政ロシア帝国の首都セントペテルブルグの市民は、1903年夏のある日、朝刊を開いて驚きの目をみはりました。
少人数の1グループが力による世界制覇を企み、その陰謀が発覚したという記事が、掲載されていたからでした。
その記事によれば、総ての都市は破壊され、反体制派は細菌注射により一掃されると書かれ、ユダヤ人の陰謀、「シオン長老会の密約書」事件の伝説が、ここに始まりました。

 セントペテルブルグの新聞には、「ユダヤ人、世界制覇の野望、シオン長老会の議事録を入手」との見出しを掲げていました。
この新聞の編集長は、反ユダヤ主義者として知られた人物で、情報の入手先を明らかにしていませんでしたが、フランス語で書かれた記録の翻訳であると主張します。

 このデッチ上げ記事は、あるユダヤ秘密結社の構成員が、世界制覇達成計画の道筋を辿ったという体裁を取り、野望は現在も進行中であるとも、伝えられていました。

 まずヨーロッパの民主的体制を覆し、ある種のプロパガンダによってキリスト教倫理の信頼を崩し、ユダヤ系実業家は物価を統制し、産業不安を起こし、更にキリスト教徒の社会が崩壊すれば、爆弾と科学兵器によって戦争を開始する筋書きでした。
この馬鹿げた報道は、なぜか広く信じられ、「密約書」が暴露されて2年目の1905年、モスクワの大司教は、信仰に対する警鐘として、市内の全ての教会に問題の記事の写しを掲示させた程でした。

 しかし、「密約書」が真に広く流布したのは、むしろ第一次世界大戦の後であり、イギリスでは”タイムズ“紙が反論と同時にそれを記事にし、ドイツでは1920年に翻訳が出版され、10万部を一度の販売する勢いでした。

 時の自動車王ヘンリー・フォードは、1920年代に「密約書」の流布に力を貸し、彼は自社工場の在るデトロイトに近いディアボーン市で発行していた自分の新聞“インデペンデント”紙に他の反ユダヤ主義記事と合わせて「密約書」の一部を転載しました。
彼は後にユダヤ系市民に謝罪し、彼等への友情を表明します。

 この悪質なデマを企んだ張本人は誰だったのでしょうか?
首謀者は2人居り、当時パリに在住していた、ロシア人政治記者イリヤ・ティオンが政敵を葬るために仕組んだと云われ、彼は極端な保守反動で「密約書」の中には、幾つか彼自身の意見に大変近い表現が在り、ロシア皇帝に自由主義者は危険人物であると印象づける手段として、書かれたとも考えられています。

 しかし、遥かに容疑の濃い人物は、皇帝の国外秘密情報機関長ピョートル・イワノヴィッチ・ラフコフスキーなのです。
ラフコフスキーは其れまでにも、反ユダヤ主義宣伝の著作を数冊執筆し、世界的なユダヤの陰謀が、ロシアを根拠地として行われていると堅く信じていました。
彼の敵は多く「密約書」の中の数節は、暗に彼等を誹謗しているとも解釈できました。
又、パリに居たユダヤ系ロシア人将校エフロンは、敵の一人として実名で記載されている程でした。

 ラフコフスキーは、パリに本拠を構えて18年間スパイ活動を続け、1902年に召還され、1917年のロシア革命後、パリの事務所を閉鎖する為に赴いた、新政府の役人にラフコフスキーの元部下が「密約書」がパリで作られその首謀者が、ピョートル・イワノヴィッチ・ラフコフスキーその人でした。

続く・・・
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