<シャクルトン調査隊の生還:前編>
1916年3月、絶望にうちひしがれたイギリス人が28人、南極海に在る氷の島の海岸で震えていました。
1914年以来、彼らは南極横断調査隊の隊員でしたが、2900kmにわたる、流氷と雪の荒地との闘いにすっかり弱りはてていました。
彼らの船「エンデュアランス」号は、5ヶ月前に流氷群に囲まれ沈没し、それ以来、彼らは流氷上で暮らして来ましたが、数日前、残っていた3隻の小船で、流氷を後にしたのでした。
リーダーは、ホーン岬南東のエレファント島を行き先に選びました。
しかし、エレファント島では吹きさらしの浜辺を襲う強風がテントをズタズタにし、ペンギンの肉や海草等の食料の蓄えも底をつき、寒さに凍え、飢えに苦しむ彼らは、今度もサー・アーネスト・シャクルトンを頼りにしていました。
「我々は、船が手に入る場所に行かなければ成らない」と彼は言い、小船で長旅を行うのは、決死的行動でしたが、彼が志願者を募ると、全員が志願しました。
5人が選ばれて、シャクルトンに同行する事と成り、行く先はフォークランド諸島のサウスジョージア島、世界最悪の大洋を僅か7m足らずの小船で、越えなくては成りません。
この時、選ばれた5人は、沈没した彼らの船の船長ウォースリー、水夫長ビンセント、大工マクニーシュ、他にトム・クリーンとティモシー・マッカーシーで、彼らは、ジェームズ・ケアード号を苦労して修理し、何とか出発できる様に準備を整えました。
苦難の航海が始まり、突然の強風に船は危うく流氷群迄押し戻されそうに成りました。
もし、その様な事態に成れば、其れは重大な後退を意味しますが、船は波を切って進み始めました。
キャンバスのデッキの下には、狭いものの寝る為の空間が在り、食料やバラストの上を無理に通って行かない限り、その場所には、行き着く事は出来ませんでしたが、終には、濡れた寝袋が唯一の慰めと成りました。
もっとも、この寝袋に彼らが、疲れ果てて潜り込んではみたものの、安眠を約束されているはずも無く、起きている事と同じで、あまり気分の良い事では有りませんでした。
シャクルトンは、後に次の様に書いています。
「我々に向かって寄せて来る大波は、まるで巨大な壁のアーチが、覆い被さって来る様な感じだった。我々は3,4分毎にびしょぬれに成った。大波が我々の頭上で崩れ、我々はまるで滝の真下に居る様だった。そして次の大波が来る迄に、小波が数回襲って来た。小波は、船を乗り越え、我々はまたびしょぬれに成った。是が昼も夜も続き、寒さはとても厳しかった」。
シャクルトンは、坐骨神経痛で酷く苦しんでいましたが、快活に振舞っていました。
ウォースリーが六分儀を使っている時は、両側から支えていなければならず、そうしないと、六分儀もろとも、船から落ちてしまいそうでした。
霧の為、太陽は何時もぼんやりと浮かんでいるだけでしたが、或る日の夕方近く、その霧の向こうに島影を発見しました。
サウスジョージア島でした!
後編に続く・・・
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