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2010/02/01

歴史の?その108

<マルコ・ポーロの旅:前編>

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 やっと20代に成ったばかりの青年にとって、それは思わず息を飲む光景でした。
其れまでに見た、如何なる都市よりも壮麗でした。
青年は、是ほど美しい都会に住んでいる人達は、天国で暮らしている様な気持ちではないかと、考えたのです。
美しく整備された街路、公園、港、運河が在り、運河には、アーチ橋が何本も掛り、その多くは大変高く、帆柱を立てた船が、その下を通る事が出来、下水道設備、警察、消防、郵便も在ったのです。

 700年前のこの青年の名前は、史上最も偉大な旅行家の一人、マルコ・ポーロです。
そしてこの大都会、杭州は中国の多くある都会の一つに過ぎませんでした。
マルコ・ポーロはその日誌に、杭州が世界中の如何なる都市よりも素晴らしいと書き、彼の意見では、首都の北京や、彼の故郷ベネチアと比較してさえ、更に美しい都だったと言います。

 マルコ・ポーロの一族は、世界中を広く旅行しており、父ニコロと叔父マティオは、既に当時の中国を訪問していました。
二人がベネチアに帰る時、皇帝は二人に、又戻ってくると約束させ、二人はこの約束を1272年に実行しましたが、この時に、当時17歳だったマルコを同行させたのでした。

 この旅行は、3年もの日数を要する、困難を極めたものでした。
一行は、まず船でトルコ南東部の港、アヤスルに着き、この町でキャラバンを組んで、アジアを横断する旅に出発したのでした。
彼らの隊商路は、現在のイラン、アフガニスタンを通過し、パミール高原を越え、天山南路を進み、ゴビ砂漠を横断して、中国(当時:元朝)に至り、1275年5月、終にフビライ汗のもとに到着したのでした。
この時、皇帝は万里の長城の北に在る、上都の夏の宮殿に居ましたが、その秋、マルコ・ポーロ一行も皇帝と一緒に冬の都、大都(カンバルク:現・北京)に戻りました。

 マルコ・ポーロは、凍った山を登り、豪雨、砂嵐、洪水、雪崩に悪戦苦闘した、長い旅の記録を残しています。
アフガニスタンでは、マルコ自身が病気になり、まる1年足止めされ、盗賊の出没する地域や紛争の起こった地域を避け、幾度もコースを変更し、計画を練り直した事が、詳細にしたためられています。

後編へ続く・・・


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