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2010/02/12

歴史の?その119

<埋  葬>

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 全てが寝静まった深夜、神官達は、古代エジプトの王が埋葬されている、谷の暗がりを静かに進んで行きました。
彼らは、岩をくり抜いた墓に静に入ると、ミイラを持ち出しました。
一体、一体と彼らは死体を包み直し、納棺した後、崖の上の小道に沿って、新しい秘密の安息の場所に運んだのでした。

 盗賊達は、何世紀にもわたって、ヒジプトのファラオの財宝を秘めた墓を略奪し続けており、此れは彼らに抵抗する為の神官達の最後の手段でした。
内部が巧妙に設計されたピラミッドでさえ、略奪を免れる事はなく、エジプトの支配者達は、ピラミッドの造営を止め、紀元前1500年頃には、現在ルクソールと呼ばれる、テーベの谷の崖に、密かに墓を作る様になりました。

 この様な王墓をトトメス一世の為に最初に設計した、建築家のイネニは、自分の墓碑銘に誇らしげにこう書いています。
「其れは偉大な仕事だった。私は、それによって、賞賛を受けるだろう」
しかし、迷路や、行き止まり、作業が放棄された様に見せかける囮の部屋を作っても、勝つのはいつも盗賊でした。

 支配者の死後の生命を守る為、死体が汚されない様に管理する責任を負わされている、神官達は、王墓の所在地が知れ渡っている限り、遺体を守る手段が無い事を悟り、宮廷の役人達の手で、組織的な略奪が行われている事も水面下では判っていたので、尚更の事でした。

 神官達は、もう一度、ファラオや王妃のミイラを隠す事にして、13体のミイラを、谷のアメノフィネス二世の墓所に移し、別の36体のミイラを、谷の外へ運び出しました。
是等のミイラは、岩の割れ目にある深さ10m程の穴の底に降ろされ、改めて作られた小屋に納めると、入口を封印し、周囲をカモフラージュしました。
以後、30世紀の間、デル・エル・バハリの墓は、誰にも気付かれませんでした。

 1880年から81年に、第21王朝の埋葬品が、エジプトの古美術品市場に出回りはじめ、カイロ博物館の管理者である、ガストン・マスペロ卿は、疑念を抱き、その出所を辿り、ある家族を突き止めました。
彼らは1871年に一つの墓を発見して、それ以来ルクソールで、盗掘品を売りさばいていたのです。
ある情報提供者が、マスペロの助手、エミール・ブルクシュを、盗掘を受けた墓に案内し、彼は深い穴を降りて、一つの部屋に入りました。
驚き、呆然とする彼の前に、36体の偉大なファラオのミイラが、在ったのです。

 1898年、他の13体のミイラが、アメノフィネス二世の墓で発見されました。
古代の神官達は、夫々のミイラの包みに、そのファラオの名前、改葬の由来を記録した札を残していました。
この記録が、後世の考古学者達に、神官達が死んだファラオの為に、永久に安全な墓所を見つける為に、無駄な努力を払った事を示す証拠となったのです。

続く・・・
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コメント

非公開コメント

神官達の無駄な努力ですか…
確かに盗まれ荒らされる意味ではそうかも…
でも神官達の努力で多少は王の魂は救われたのかも…ですね

おはようございます

毎回のコメントありがとうございます。
確かに、徒労に終わった事も多かったと思いますが、現実に彼らの行為が無ければ、ファラオの記録は現代に伝わらず、エジプト史も大きく変わったものに成っていたと思います。

私のブロクで、過去に敦煌文書、現在、死海写本を取り上げていますが、同様な行為が、現在に1000年から2000年前の、庶民生活、宗教活動の状況を伝えているのですね。

先のコメントで、佐賀県のご出身なのですね。
佐賀県は、私の母方の郷里でもあり、年に1回は墓参に行きます。