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2010/02/17

歴史の?その123

<ユダヤ人抵抗の砦マサダ:前編>

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 西暦紀元73年、ローマ第10軍団が、マサダの砦に対する最後の総攻撃の準備を整えた時、その内部に立てこもった、ユダヤ教信者の一団は、恐ろしい決断を示していました。
降伏して、残忍なローマの報復を受け、奴隷と成るよりも、彼らは自らの手による死を選択したのでした。

 ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスの記録によれば、指導者エレアザル・ベン・ヤーイルは、英雄的な演説を行ったと云います。

「1日以内に、我々がローマ軍の総攻撃を受ける事は、間違い無い。
敵の前で奴隷になるよりは、死を選ぼう。
この世を後にして、自由の国で妻子と一緒に暮らそう。
急ごうではないか!
我々を、その力の下におこうと望んでいる敵に、多くの喜びを与える代わりに、我々の死に対する驚きと、我々の勇気に対する賞賛を引き起こす様な、手本を見せてやろうではないか」

 ベン・ヤーイルは、豊富な食料の蔵を除き、砦全体に火を放つ様に命じ、彼らは、自分達が誇りと信仰の為に行動しているのであって、絶望の果てに死んでいくのでは無い事を示そうとしたのでした。
そして、既婚者の男は家族を殺し、生き残った者は、籤を引いて、残っている者達を殺す10人を選んだのです。
この10人は、再び籤を引いて、残りの9人を殺す1人を決めたのでした。
そして、最後の1人は、自決しました。
こうして、965人のユダヤ人が、自ら死を選びました。

 ローマ軍が城壁に殺到した時、彼らは「完全な沈黙」に遭遇したのです。
砦に入城した彼らは、「大量の死者を見つけた。しかし、敵が一掃されたというのに、彼らには如何なる喜びも湧いて来なかった。只、死者の決意の勇敢さと、この多くの者が死を持って示した、断固たる侮蔑とに、驚くばかりだった」とヨセフスは書いています。

 マサダは、独立の為に戦った人々の、偉大な物語の一つと成りました。
しかし、この物語は長い間、真実か否か疑われてきたのです。
唯一の資料が、ユダヤ人ヨセフスの書いたものであり、彼はその場に居合わせた人物ではないからです。
その証拠は、1963年、此れまで行われた内でも。もっとも困難な発掘によって得られたのでした。
その発掘作業は、5000人余の奉仕者が、イスラエル第一の考古学者イゲル・ヤディン教授による指揮の基に行われたものでした。
マサダは、死海近くのユダヤ平野に存在し、頭部が平になった巨大な岩の露頭で、9ヘクタール程の面積が在ります。

 キリスト生誕の30年程以前、この地はヘロデ王によって、城砦として要塞化され、常に裏切りを恐れていたヘロデ王は、岩盤の上に堅固な城壁と搭を建て、水路網と貯水池、固い岩を刻んだ階段を持つ大きな地下室を建造したのです。
断崖の上には、宮殿、3層からなる華やかな娯楽用の館を建て、此処は安全で、贅沢な隠れ家と成りました。
ヘロデ王の死後、進駐していたローマ軍が、此処を駐留地として使用し、西暦66年に、ユダヤ教信者の一団が、メナヘムの指導の下に、ローマの支配に反抗して立ち上がる迄、続いたのでした。
4年後、反乱の殆どが鎮圧された時も、マサダだけが最後迄頑強に抵抗を続けたのでした。

後編へ続く・・・
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