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2010/03/01

歴史の?その134

<皇女と則天武后:前編>

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 中華人民共和国の古都、西安から北西に80km程はなれた場所に、17基の墳丘群が、周囲の平野から目立っています。
此れは、唐代の広大な王墓で、1300年程の昔、此処に1人の若い皇女が埋葬されました。
その名を、永遠の平和の意味である永泰公主と云い、中国歴代王朝の中でも、黄金時代といわれる唐代(西暦618年~907年)に生きた女性です。

 彼女の生と死の物語は、1000年以上を隔てた現在さえ、痛ましいものでした。

 西暦700年、16歳の永泰公主は、唐の宮廷の高い身分の貴族で、風采も堂々たる武官と結婚しました。
結婚後直ぐに懐妊にし、華やかな世界で、彼女の将来を約束されているかの様にみえました。

 しかし、其処は又、永泰公主の祖母、則天武后に支配された世界でもあり、彼女は、前皇后を殺害し、ライバルと成りそうな者達への警告として、その手足を切断して酒に漬ける様な残虐な行為を示して、唐王朝の最高権力者に台頭した人物でした。
彼女が、全宮廷に不信を抱き、あらゆる人々の間に、陰謀の陰を見たとしても、故の無い事ではなかったでしょう。

 西暦701年の或る日の事、宮中に広く放たれた密偵の1人は、若い永泰公主が、夫や兄弟と一緒に、宮廷生活のとある一面を、笑っている事を聞いてしまいました。
密偵は、直ちにその事実を則天武后に知らせ、彼女は、その事実の中に陰謀の芽を見とり、直ちに若い3人に死の命令が下ったのは言うまでもありません。

 則天武后のこの命令は、厳しい仕来りに裏付けされたもので、若い3人は共に、自分達の成すべき事を知っており、西暦701年10月8日、自害したと云われています。

 皇女とその物語は、人々の記憶から殆んど消えかけていましたが、1960年、中国当局は、西安近郊の唐代墳墓の一つを発掘調査する決定を下しましたが、当時、夫々の陵墓の埋葬者に関して、唐王室の誰かと云う以外、何も知られていなかったのです。
全くの偶然から、一つの陵墓が選定され、この選択によって長く忘れられていた皇女が、再度歴史の舞台に登場する事に成りました。



後編へ続く・・・
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