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2010/03/19

歴史の?その151:バチカン宮殿

<バチカン宮殿>

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 世界には、偉大な建築物と呼ばれる物は、多数存在しますが、ローマのサン・ピエトロ大寺院程、多くの建築家が建設に参加した例を他に見出す事が出来ません。
最初にこの大寺院の建設を計画したのは、教皇ニコラウス5世で15世紀の事でしたが、実際に完成する迄に350年の年月が必用でした。
その間、歴代の教皇や、数多くの建築家が建設に携わったのです。

 本来この場所は、コンスタンチヌス大帝が使徒ペテロの為に建てた、バシリカ聖堂が在り、ニコラウス5世は、この古い聖堂を取り壊し、大寺院を建設するという決定を下したのですが、建設計画が具体的に動き出したのは、1505年の事でした。
時の教皇ユリウス2世は、バシリカ聖堂の側に大霊廟を建設して、自分の名前を永遠に伝え様と考え、金銭に糸目を付ける事なく、この事業をミケランジェロに任せたのです。

◎心変わり

 ユリウス2世は、何度も心変わりした後、墓所を別の場所に建てる事を諦め、古いバシリカ聖堂を完全に建て直す事に決め、建築家ドナト・ブラマンテを登用します。
ブラマンテはまず、古いバシリカ聖堂を取り壊して、その中に在ったモザイク画、イコン、祭壇、墓、彫像の全てを処分してしまいますが、この作業には2500人の作業員が、幾週間にも渡って作業を行いました。

 ユリウス2世が1513年に死去した後、教皇に成ったレオ10世は、新たな建築家にラファエロを任命します。
ラファエロは、ブラマンテの設計に徹底的な改修を加えますが、彼が死去する迄の6年間に成されたのは、数本の柱を建てた事とブラマンテの不具合個所を修築した事位でした。

◎ミケランジェロ

 1521年にレオ10世が死去し、教皇クレメンス7世は、バルダサーレ・ベルッツィを建築の最高責任者に選びますが、ベルッツィは、サン・ピエトロ大寺院に殆んど手を出す事は、在りませんでした。
ブラマンテが造った、壁やアーチはひび割れ、其処から雑草が生える程でしたが、次の教皇パウルス3世は、この建設計画を推進し、この教皇は、スペインがトルコ撃退の聖戦の為に準備した資金を盗用して、アントニオ・サン・カロに仕事を任せ、次に著名なミケランジェロを登用します。
しかし、ミケランジェロは当時既に72歳、システィナ礼拝堂の天井画完成から、長い年月が経っていました。

 ミケランジェロがサン・ピエトロ大寺院の最初の設計が完成したのは、1547年、間もなく建設に着工したものの、1549年パウルス3世が死去し、其れと同時に大寺院建設にかけるミケランジェロの熱意も冷めていったと云われます。
教皇パウルス4世は、ミケランジェロを励ましますが、彼の寿命は当に尽きようとしていたのです。
ミケランジェロの死後、寺院建設は混乱期に入り、中々伸展しませんでした。

 この後、1585年シクストゥス5世が教皇となり、建設計画は再び稼動し始め、其れまでの教皇の誰よりも多くの仕事を行ったのです。
ミケランジェロの設計したドームの建設もこの時期に、殆どが行われました。
システィナ・ホールとバチカン図書館の建設を命じたのも、シクストゥス5世で、1588年にドミニコ・フォンタナが完成させますが、この図書館は、本来1447年から1455年の間に、ニコラウス5世が作ったもので、この時340巻が納められ、蔵書の中核と成りました.

◎仕上げ

 其の後、教皇ウルバヌス8世がジョバンニ・ベルニーニを登用、ベルニーニは教皇の祭壇を覆う大天蓋を造り、鐘楼を建て、本堂に装飾を施しました。
最後に付け加えられたのは、聖具安置所で、1784年の事でした。
是で、サン・ピエトロ大寺院は完成したのですが、シクストゥス5世がドームを建設して200年、ミケランジェロがそのドームを支える壁の工事してから238年、ニコラウス5世がコンスタンチヌス大帝のバシリカ聖堂を建て直してから、実に338年の長い年月が過ぎていました。

 バチカン図書館は、17世紀から18世紀にかけてかなり拡充されましたが、1798年に膨大な文献がフランスに持ち去られ、大打撃を被ります。

 現在、図書館には、約6万の古写本、7000の初期判本、10万の彫板印刷物と地図、90万冊以上の書物が所蔵されています。

続く・・・
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