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2010/03/25

歴史の?その156:ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:後編

<ドイツ史の流れを変えた議事堂炎上:後編>

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◎独裁制への道

 「今すぐに共産主義者の役人を銃殺せよ!共産党の議員を絞首刑にせよ!同情は禁物である!」
ナチスには、ドイツ国民を反共産主義に、転じさせる必用が在りました。
議会でナチスは、最多議席を占めていましたが、左翼勢力が独裁制への道を阻んでいたからです。
1夜のうちに共産主義者5000人以上が逮捕され、指導者4人が放火の陰謀に加担した罪で、告発されました。

 1933年3月5日に実施された総選挙でも、結果は、100議席を持っていた共産党は81議席へと後退し、一方ナチスも199議席から288議席へと躍進したものの、全体の647議席の過半数獲得には至らなかったのでした。
1933年3月23日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂となったクロールオペラ劇場で、総選挙後初の本会議が開催されました。
出席した議員の数は535人であり、共産党議員81人、社会民主党議員26人、その他5人の議員は病気・逮捕・逃亡等の理由で「欠席」したのです。
出席した社会民主党議員は全員が反対したものの、ナチスはドイツ国家人民党と中央党の協力を得て3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させます。

 この法律は国会審議・議決無し、更に大統領の副署無しに、広範囲な法律の制定乃至改定する権限をヒトラー政権に委譲するものでした。
議場の周辺には親衛隊が防衛線を張り、議場内の廊下には突撃隊員が立ち並んでいたと云います。

 さてベルリンの消防署の専門家は、放火事件は単独犯では在りえず、6名乃至7名の共犯者が存在したと考えていたにも関わらず、ライプチヒ法廷は、フォン・デル・ルッペの共犯とされた4名の釈放を命じ、ヒトラーは放火事件を共産主義者の陰謀としましたが、他の国々では、ナチス自身が放火の陰謀をめぐらしたと確信したのでした。

 共産党は、激しい反共宣伝の洗礼を受けながらも、ゲーリングとその一味が地下道を通り、国会議事堂に放火した後、又同じ道を通ったのだと反論したのでした。
第二次世界大戦のニュルンベルグ裁判で、旧ドイツ軍参謀長のフランツ・ハルダー将軍は、ゲーリングが1942年に「ライヒスターク炎上の真相を知っているのは私だけだ。放火したのは私なのだから」と自慢したと証言しています。

 ゲーリングはハルダーの証言を否認しましたが、周知の通り、ナチスにおいて嘘と裏切りは日常茶飯事で、真相も戦後2転3転します。
新たな調査から、別の結論が引き出されました。
ナチスも又、濡れ衣を着せられた訳で、フォン・デル・ルッペは4束の焚きつけとマッチ1箱を使って、完全に自分の意志で放火を行ったらしく、ゲーリングとその部下は、消火活動を妨害しただけでした。

本編終了・・・
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