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2010/05/20

歴史の?その198:正史の中の疑問⑤:曹操は悪人だったのか・前編

<正史の中の疑問⑤:曹操は悪人だったのか・前編>

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 3世紀の中国、後漢の帝国は名目を保っているに過ぎませんでした。
皇帝は、在位していても如何なる権力も無く、只、形の上で皇帝の座を保って居るだけでした。

 群雄割拠し、天下を争い、その中で最後迄残った3人の英雄が、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備でした。
この3人の中で、曹操は大悪人、乱世の姦雄と昔から決まっており、あらゆる策略を巡らして、敵対者を倒し、終に魏王となって、暴虐の限りをつくす、形だけは、漢の皇帝をいただいていたものの、実権の全ては曹操が握っていました。
既に漢の天下は、魏王に奪われたも同然でした。

 220年、曹操が崩御すると、即位した子の曹丕は、漢の帝位を廃して、自ら魏の皇帝を名乗ります。
即ち、文帝であり、ここに漢の国は、名実供に滅亡したのでした。
之に対抗したのが、孫権であり劉備で、特に劉備は一世の英傑、その姓が劉氏である事からも、漢の皇室と同族であり、曹氏に奪われた漢の天下を回復する為、あくまで戦おうと、221年、自らも即位して、漢の皇帝たる事を宣言し、蜀漢の照烈帝となりました。

 劉備の処には、豪傑あり、謀将あり。
特に高明なのは、張飛と関羽、そして諸葛孔明、その生涯を劉氏の為、漢帝国の復興の為に捧げました。
しかし、蜀の地は中国の西方に位置し、人口も100万に達する事は無く、その国力は、魏に比べるも無かったでした。
やがて、人口440万を擁する魏は、じりじりと蜀を圧迫し、263年蜀も二代にして滅亡してしまいます。

 呉は、江南を保って、人口130万、魏に対抗して、孫権も皇帝を称しましたが、やはり北方の強国、魏の大勢力には対抗できず、四代を保ったものの魏の後を受けた晋によって280年に滅亡します・

 魏呉蜀三国の興亡は、「三国志演義」が著されて以来、広く中国の民衆に好まれ、日本でも大変良く読まれたのです。
劉備は正しく、曹操は悪人と云う事が、この物語を貫く一本の太い筋で、日本に置き換えれば、後醍醐天皇と足利尊氏と言えるでしょう。
人々は、正しい劉備や諸葛孔明の悲運に涙し、あくまでも悪くて、強い曹操を歯がみして苦やしがりました。

後編へ続く・・・
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