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2010/05/27

歴史の?その204:正史の中の疑問⑪:建文帝の行方・前編

<正史の中の疑問⑪:建文帝の行方・前編>

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 「世おのづから数といふもの有りや。有りといへば有るがごとく、無しとなせば無きにも似たり」。
幸田露伴の名作「運命」(大正8年)の冒頭の文書で、ここで露伴がえがこうとした題材は、中国明帝国の歴史の一こまでした。

 かくて露伴は・・・
「運移り、命あらたまるの時、多くは神異ありて、天意の属するところあるを示すものあり」。
明帝国を建国したのは朱元璋、即ち太祖洪武帝であり、平民から将軍となり、モンゴル人の元を打倒して、漢民族の中国を回復し、時に1368年、現在の南京に於いて皇帝の位に就きます。
その治世は31年の長きにおよび、1398年病を得て崩御、71歳でした。
長男は、早くに亡くなっていたので、その子供、皇太孫が帝位を引継ぎ、第二代皇帝建文帝と成りました。

 しかしながら、洪武帝には、多くの皇子が居り、皇子達は明の帝国を守るべき者として、それぞれ領地を与えられ、重要な地域に王として、存在していました。
中でも特に大きな勢力を有していたのは、現在の北京、当時の燕京で王と成った四男、燕王で在りました。
洪武帝崩御の時、燕王39歳、是に対して建文帝22歳。

 若い皇帝にとって20人以上に及ぶ、叔父達の王は、目の上の瘤以外何者でも無く、特に武勇の誉れ高い燕王は、一番の邪魔者で有りました。
建文帝は、燕王をはじめ、王達の勢力を削る為、姦計をめぐらせます。

 さて、これら20人以上に及ぶ王達の側には、王を補佐すべき者が洪武帝の命によって付けられており、言い換えれば、お目付け役であり、燕王の処にも侍僧が居ました。
この人物が、怪僧で名を道えんと云い、彼は自ら進んで燕王の付き人と成りました。
其の時「大王(燕王)が私を側に置いてくださいますならば、大王の為に白い帽子を差し上げましょう」、と云いました。
王の文字の上に白という文字を載せれば、皇という文字になります。

後編へ続く・・・
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