歴史の?その211:正史の中の疑問⑱:エジプト王の呪い
<正史の中の疑問⑱:エジプト王の呪い>

20世紀最大の考古学上の発見と云われる、エジプトの「トゥタンカーメン王墓発掘」は、多くの歴史的遺物が多数出土し当時の学会を賑わしました。
ご存知の様にエジプトのピラミッドは、王墓で王の亡骸や生前の日用品が数多く埋葬され、王が黄泉の國での生活に困る事が無い様に配慮されていましが、当然、墓荒しの対象となった事は、言うまでも有りません。
後にピラミッドを造営する事なく、死後の王を称える神殿やオベリスクを目立つ所に建立し、王の亡骸は、目立つ事の無い場所に安置するようになりました。
何時しか、その場所は「王家の谷」と呼ばれ、埋蔵品を守ろうとする王朝側とそれを盗み出そうとする盗賊達の智恵比べの場所ともなり、後年、未盗掘の王墓を発見する事は、考古学者の悲願となっていました。
しかし、1920年11月3日、イギリスの考古学者カーターが、終に未盗掘の王墓を探し当てたのです。
彼は、第一次世界大戦の前から、現地に赴き、当時盗掘による遺品が、全く発見されていなかった、トゥタンカーメン王の墓が、この「王家の谷」の何処かにある事を確信し、幾度もの失敗を繰り返しながらの発見でした。
彼は、資金的なパトロンである、同郷のカーナヴォン卿に電報を打ち、カーナヴォン卿は、発見の興奮も覚めやらぬ24日現地に到着。
愈々、王墓本体に発掘が始まり、未盗掘の王墓が、姿を表したのです。
王の亡骸は、三重の黄金の棺に納められ、その上を石棺が被い、更に四重の厨子がその上を被い、王の亡骸を包む麻布には、多数の宝石が包み混まれ、当時の栄華を偲ばせるに十分なものでした。
トゥタンカーメン王は、紀元前1358年から約10年程エジプトを統治した王様で、他界した時の年齢は、18歳から20歳位の若い王様です。
この発掘が、行われる迄、殆んど一般の人々が耳にする名前ではないのですが、その様な少年王ですら、耳目を驚かす程の素晴らしい出土品が、発見されたのですから、他の有名で、長寿を得た王様の墓がどれ程、立派で有ったか想像できます。
さて、カーナヴォン卿は、1923年に現地で「蚊」に刺され、熱病になり3週間程後に亡くなりましたが、この頃から「ファラオの呪い」と云う噂が広まり始めました。
真偽は兎も角、トゥタンカーメン王墓の発掘に従事した、人々が、1930年頃迄に次々と20人以上死去したと新聞に報じられ「ファラオの呪い」は、有名になりました。
その中には、健康体にも係らず急死した、リチャード・ビゼール(カーターの助手)、自宅の7階から投信自殺した、ウェストベリー卿等が居り、一時は、カーター自身もアメリカで死亡した伝えられた程でした。
余りの噂にドイツのエジプト学者、シュタインドルフが調査したところ全てが、単なる噂に過ぎない事を実証し「ファラオの呪い」説を打ち消しました。
此れは、トゥタンカーメン王墓の素晴らしさと、カーナヴォン卿の死が余りに急であったので、この様な噂(現在なら都市伝説)が一人歩きした結果でしょう。
尚、カーター本人は、66歳迄無事に生存し、1939年に世を去りました。
続く・・・

20世紀最大の考古学上の発見と云われる、エジプトの「トゥタンカーメン王墓発掘」は、多くの歴史的遺物が多数出土し当時の学会を賑わしました。
ご存知の様にエジプトのピラミッドは、王墓で王の亡骸や生前の日用品が数多く埋葬され、王が黄泉の國での生活に困る事が無い様に配慮されていましが、当然、墓荒しの対象となった事は、言うまでも有りません。
後にピラミッドを造営する事なく、死後の王を称える神殿やオベリスクを目立つ所に建立し、王の亡骸は、目立つ事の無い場所に安置するようになりました。
何時しか、その場所は「王家の谷」と呼ばれ、埋蔵品を守ろうとする王朝側とそれを盗み出そうとする盗賊達の智恵比べの場所ともなり、後年、未盗掘の王墓を発見する事は、考古学者の悲願となっていました。
しかし、1920年11月3日、イギリスの考古学者カーターが、終に未盗掘の王墓を探し当てたのです。
彼は、第一次世界大戦の前から、現地に赴き、当時盗掘による遺品が、全く発見されていなかった、トゥタンカーメン王の墓が、この「王家の谷」の何処かにある事を確信し、幾度もの失敗を繰り返しながらの発見でした。
彼は、資金的なパトロンである、同郷のカーナヴォン卿に電報を打ち、カーナヴォン卿は、発見の興奮も覚めやらぬ24日現地に到着。
愈々、王墓本体に発掘が始まり、未盗掘の王墓が、姿を表したのです。
王の亡骸は、三重の黄金の棺に納められ、その上を石棺が被い、更に四重の厨子がその上を被い、王の亡骸を包む麻布には、多数の宝石が包み混まれ、当時の栄華を偲ばせるに十分なものでした。
トゥタンカーメン王は、紀元前1358年から約10年程エジプトを統治した王様で、他界した時の年齢は、18歳から20歳位の若い王様です。
この発掘が、行われる迄、殆んど一般の人々が耳にする名前ではないのですが、その様な少年王ですら、耳目を驚かす程の素晴らしい出土品が、発見されたのですから、他の有名で、長寿を得た王様の墓がどれ程、立派で有ったか想像できます。
さて、カーナヴォン卿は、1923年に現地で「蚊」に刺され、熱病になり3週間程後に亡くなりましたが、この頃から「ファラオの呪い」と云う噂が広まり始めました。
真偽は兎も角、トゥタンカーメン王墓の発掘に従事した、人々が、1930年頃迄に次々と20人以上死去したと新聞に報じられ「ファラオの呪い」は、有名になりました。
その中には、健康体にも係らず急死した、リチャード・ビゼール(カーターの助手)、自宅の7階から投信自殺した、ウェストベリー卿等が居り、一時は、カーター自身もアメリカで死亡した伝えられた程でした。
余りの噂にドイツのエジプト学者、シュタインドルフが調査したところ全てが、単なる噂に過ぎない事を実証し「ファラオの呪い」説を打ち消しました。
此れは、トゥタンカーメン王墓の素晴らしさと、カーナヴォン卿の死が余りに急であったので、この様な噂(現在なら都市伝説)が一人歩きした結果でしょう。
尚、カーター本人は、66歳迄無事に生存し、1939年に世を去りました。
続く・・・
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