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2010/06/21

歴史の?その223:正史の中の疑問30:ジャングルの奥に

<正史の中の疑問30:ジャングルの奥に>

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 1858年から1861年にかけて、フランス人博物学者アンリ・ムーオは、インドシナ半島のメコン河とメナム河流域を探検し、その地方の地質や動植物を調査しました。
1861年の初め、彼は、カンボジアのトンレ・サップ湖の北側に位置するジャングルの中に、大きな都市や寺院の遺跡が在る事を聞きました。

 しかし、ムーオは象や虎等の野獣が住んでいるだけで、人間など到底入った事の無い様なジャングルの中に遺跡が在る事など、到底信じる事が出来ませんでした。
処が、ジャングルに入って三日目の事、木の茂みの上に、五つの高い石塔が立つ姿を実見しました。
是が、アンコール・ワット(大寺院)で、その北側1km程先にアンコール・トムと云う都市の遺跡が在りました。

 ムーオは、ジャングルの植物に半ば覆われてしまった、この寺院や都の素晴らしさの虜に成り、地質や動植物の調査を中断して、遺跡に調査に没頭しました。
彼は、遺跡をスケッチし、フランスやイギリスで紹介すると、「東洋に奇跡を発見した」として注目されました。
しかし、実際厳密には、ムーオが発見した訳ではなく、土地の人々はこの遺跡の存在を以前から知っており、大寺院に巡礼している者も居り、中国の古書にも、大寺院や都の話は、紹介されていました。
結果として、ムーオの報告によって、ヨーロッパ人にアンコール遺跡群の存在が知られる様に成ったのは、確かな事でした。

 アンコールの都は、クメール人のヤショヴァルマン王(在位889年~900年)によって造営され、大寺院は、スールヤヴァルマン王(在位1112年~1152年)によって建立されました。
このクメール人が如何なる民族なのか、解明されず14世紀に成るとアンコールの都を廃棄して、消滅した謎の民族と云われて来ましたが、今日では、インド方面から移住して来た人々が、現地の人々と混血した民族で在ると考えられています。
又、クメール王国の終焉が、何時なのかも解かっていませんが、13世紀頃から西にタイ人の国家が建設され、やがて攻め滅ぼされたのであろうと推定されています。
そして、彼等は消滅したのでは無く、今日のカンボジア人は、クメール人の子孫であると考えられています。

 クメール人達が、アンコールの都を廃棄したのは、国そのものが滅亡した結果ですが、本来、クメール人は、疫病に流行、農作物の不作等の理由で、都を遷都する事が在りました。

 都をと言うより都市をしばしば移動させた民族は、クメール人だけでは無く、日本に於いても、天皇が交替する度に都を遷都し、中央アメリカで6世紀から10世紀頃栄えたマヤ人も、クメール人と同様に石造りの巨大な都市や寺院を放棄しています。
マヤ人は当初、ユカタン半島の南側に都市を造営して移住していましたが、7世紀頃からは、400km以上離れた北部に、新たな都市を造営し始めました。
彼等の放棄した都市には、天災はおろか、戦乱の痕跡も無く、疫病の蔓延ならば人口も減少したでしょうが、移動後の都市規模もより大きくなる傾向が在り、人口減少も考え難いのです。

 ここで問題になるのが、現在も東南アジアや中央アメリカで続いている、焼畑農耕で、マヤ人達は、とうもろこしを栽培して、生計を立てていました。
彼等は、文字を持ち、立派な暦法を整備し、天文学や建築学も発展していましたが、鉄を知らず、鍬や鍬も無く、畑にする土地に生えている木々を石斧で切り倒し、其れを焼き、先を尖らせた棒で土を掘って、とうもろこしの種を撒くだけで、肥料を与える事も知らない為、一度利用した土地は、長期に渡って休ませねば成りませんでした。
その期間に植物が繁茂し、是等を伐採して焼いて、再び畑として使用するのです。
しかし、焼畑農耕は、結果的に土地の地力を減少させる為、畑はだんだんと都市から遠く離れる結果と成り、その為に新しく肥えた土地を求めて、都市を移動させねばならなかったのでしょう。

続く・・・
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コメント

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僕もカンボジア大好きな1人ですね!3回行ってますよ!アンコールワットの遺跡。ベトナクは妻と3回行ってますが、妻はカンボジアしりませんんでい一度一緒に行きたいですね!JTBのたびたびで7月に40万円満期になりますので検討します!