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2010/06/28

歴史?その228:正史の中の疑問35:イースター島の巨石人像

<正史の中の疑問35:イースター島の巨石人像>

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 オランダの提督ヤコブ・ロヘベーンは、この様な物を見た事は有りませんでした。
南太平洋中央の海図に無い島を高さ10m近い巨人の兵士が防備していたのです。
この巨人達は、要塞の胸壁に似た巨大な石壁の上に並んでいました。

 3隻の艦隊を島に接近させると、巨人は只の石像で、その足元を歩き回っている人間は、皆普通の背丈と解かり、ロヘベーンは、胸をなで下ろしました。
翌日、彼は少人数の部隊を引き連れて、島に上陸し、「胸壁」が石像を載せる壇でしかない事を知り、各壇の上には、赤い帽子を被った耳の長い人間の胸像が立っていました。

 時は、1722年の復活祭(イースター)の日曜日でしたから、ロヘベーンは、自分の発見した島をイースター島と命名し、島を離れたのでした。

 イースター島にヨーロッパ人が再び上陸したのは、其れから50年後の事で、本格的な調査が開始されたのは、更に100年後の事でした。
その頃、ロヘベーンの見た立像は、全て倒されており、大半が部族同士の争いで、壇から引き倒されたのでした。

 巨人像は休火山ラノララクの火口に産出する、火山岩を刻んだもので、火口壁から300体以上が刻まれ、斜面を降ろされ、何らかの方法で、壇上に立てられた事が解かりました。
火口の中には、未完成の石像が400体程も残っており、僅かに鑿を入れ始めた物も在れば、壇へ運ぶ準備の整った物も存在し、又嘗て石像を削っていた石工が廃棄していった、黒曜石の手斧と鑿が火口で発見されました。

 現場の様子は、石工達が戻ってくる予定が、そうならなかった様に思え、火口からの下り道に沿って、完成した石像が数十体も置かれています。
その幾つかは、重さ30t、高さ4m程であり、未完成の石像には、推定重量50t、高さ20mの巨大な物も含まれています。

◎長耳族

 石像の中には、火口から16km離れた場所に立っていた物も在り、島民が如何なる方法で是等の石像を運び、壇上に立てたのか、現在のところ、専門家にも判明していませんが、丸太をコロとして使用した説は、現在では否定されています。
実験の結果、その様な仕事に必要な大木は、イースター島の土壌では繁茂しない事が判明し、つる草をロープに編んで、石像を引っ張る事も考えられましたが、つる草のロープでは、30tの重量が限界である事が判り、この説も退けられました。

 古い住居後の調査から、イースター島の人口は、かつて2000人から5000人の規模で在った事が判明しており、彼らは二つの階級に分化していた様なのです。
石像のモデルになった「長耳族」・・・耳朶に重りを下げて長くした・・・は、恐らく支配階層で、一方の「短耳族」は被支配階層であったと推定されています。

 耳朶に重りをつける風習は、スペイン人に征服される以前のペルーのインカ族にも存在しましたが、現在の島民は、南アメリカの民族よりもポリネシア人に近い血統的特徴を持っています。
イースター島の謎を解明する糸口は、ペルーの奴隷商人によって永遠に失われました。
彼らは、19世紀末に1000人の島民を捕らえましたが、その中には、この島の最後の「王」と「賢者」も含まれていたのでした。

 鎖に繋がれ、奴隷船で連れ去られた、この人々が如何なる運命を辿ったのか、誰も正確に知る事は出来ませんが、後にある者は、島に帰り着き、流行病をもたらし、残りの島民を死滅させ、如何にして、一枚岩の石像を創り上げたのか、その答えは永遠に失われたのでした。

続く・・・
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