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2010/07/12

歴史の?その238:正史の中の疑問45:ロンドン搭の二王子

<正史の中の疑問45:ロンドン搭の二王子>

783px-Tower_of_london_from_swissre_convert_20100712214121.jpg

 夏目漱石の作品に「倫敦搭」という短編が在ります。
私は、シャーロック・ホームズ作品が、子供の頃から大好きですが、何故か“ロンドン”の名前を見聞きすると、漱石のこの作品を連想してしまいます。
作品の中でロンドン搭に捕らえられて居る、幼い二人の王子が、リチャード三世(在位1483年~1485年)に部下によって殺害される話は、哀れであり、余りに惨いお話です。

 15世紀の末(西暦1483年)エドワード四世(在位1461年~1483年)の王子、エドワードとリチャードは、父王の死後、王位を狙う伯父のリチャードに為に、ロンドン搭に幽閉されます。
王子達に一目会いたいと訪ねて来た、母エリザベスは、牢番に断られ、泣く泣く帰って行かなければ成りませんでした。
王子達の無邪気な様子や、リチャードの命令で、二人の王子を殺した男が、「首を閉める時、花の様な唇がびりびりと振るえた」等と話す箇所は、読んでいて心に迫る部分です。
夏目漱石は、この物語をシェークスピア作品の「リチャード三世」と、画家ドラロッシの残した絵画から、創りあげました。

 英国人であれば、この二王子殺害の事件は、広く知られており、学校で教えられる歴史の授業の他、上述のシェークスピア劇によっても有名に成った為でも有ります。
シェークスピア劇に因れば、リチャード三世は、極悪人として描かれ、体に障害を持ち、心にも深い傷を負っていました。
血も涙も無く、只権力を握りたい野心家で、劇中でも「私は慈悲を知らない(第一幕第二場)」、「涙頂戴の哀れみ等自分の眼中には住んでいない(第四幕第二場)」等の場面で、自らを述べる部分が在ります。
彼は、兄王エドワード四世の死後、王位を簒奪し、自分の妨げになる者は、兄弟、甥、妻、家臣迄も殺戮を繰り返します。

 事実、リチャード三世がこの様な王様で在るならば、なんと惨い人物で在ったと思いますが、近年、リチャード三世について再評価が行われ、実際に二王子を殺した事は無く、情け深い王様で、家臣、人民からも慕われていたとも伝えられています。

 リチャード三世を知るには、「ユートピア」を著したトーマス・モア(1478年~1537年)が、リチャード三世と同時代である為、彼の「リチャード三世伝」が良いとされていましたが、実際には、リチャード三世が即位した頃、トーマス・モアは僅かに5歳、崩御した時も7歳であった為、彼の「リチャード三世伝」も後年、多くの人々の口述を頼りに書かれたものと判断される様に成りました。
この伝記が、余り信用できなくなると、他の記録が大変少ない為、リチャード三世の実像は不明な部分が、大変多く成ります。

 リチャード三世が、実際にどの様な王様で在ったのか、判断する事は難しいですが、次の様な歴史的な事実が有ります。
リチャード三世は、即位してから2年後、ヴォスウォースの戦いで、チューダー家のヘンリーに討たれてしまい、その後ヘンリーは、イングランド王ヘンリー七世と成りました。
ヘンリー七世の出身であるチューダー家は、リチャード三世のヨーク家に比べると、イングランド王に成る資格がそれ程高く有りませんでした。
其の為、リチャード三世が悪王で、人民を蔑ろにしていた事を強調する必要から、リチャード三世は、実際以上の悪王にされてしまった様なのです。
シェークスピアは、チューダー家のエリザベス一世がイングランドを統治している時代に、劇作家として活躍した人物であると云われています。

続く・・・
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