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2010/07/29

歴史の?その250:正史の中の疑問56:清朝の黄昏・後編

<正史の中の疑問56:清朝の黄昏・後編>

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 その爆発が、戊戌の政変(1898年)で、光緒帝は少壮の官僚を当用して、諸政策の刷新を断行します。
親政が現実に開始されたのですが、勿論、西太后や旧保守派の側近達の反動は、日増しに激しさを増して行きます。
終に皇帝派は、最後の手段として、軍閥の首領たる袁世凱を味方に引き入れ、西太后派を打倒すると供に、西太后本人を政権の座から、永久に隔離しようと考えました。

 しかし、袁世凱は皇帝の密旨を受けると、そのまま西太后の下へ走り、直ちに西太后は、勅令は発し、皇帝派を一斉拘束、処刑してしまいます。
光緒帝も幽閉の身と成り、西太后は三度、摂政の地位に就き、この後の皇帝は正しく、名前ばかりの皇帝で在り、全ての政令は、西太后から発せられました。

 光緒34年(1908年)、明治41年、前年秋から光緒帝の病が伝えられていましたが、西太后も又、大病の床に臥し、既に74歳の高齢と成っており、もし、西太后に万一の事が有れば、皇帝の親政が復活するのでしょうか?
この時迄、西太后の側近として、権力を謳歌して来た官僚達の運命は、如何なる事になるのでしょう?

 病床の西太后は、最後のそして重大な決定を下します。
1909年11月13日、皇太子として当時3歳の愛新覚羅・溥儀が指名を受けます。
光緒帝にも実子が無く、其処で、皇弟の醇親王の子を立てるという次第でした。
溥儀は、宮中に入り、醇親王は摂政王たるべき事も命じられたその翌日、光緒帝は崩御、更に翌日には、西太后も逝去し立て続けの悲報が、宮中を震撼させました。
今回の皇帝崩御に際しても、殺害の風説が宮中に渦巻きます。

 溥儀が清朝最後の皇帝、宣統帝で在り、後に大日本帝国の傀儡国家、満州国初代皇帝に成った事は、現在でも良く知られています。
溥儀の回顧録に以下の様な一節が有ります。
「光緒帝は崩御する前日迄、体調良く元気であった。処が、薬を一服飲んだとたん、症状が一変したと云う。その薬は、袁世凱がよこした物だった」。
「病気は、普通の感冒だった。宮中の人々は、皇帝の容態が重いとの知らせを聞いた時、皆不思議に思った。更に不思議な事に、容態が重いと知らされてから、4時間と経たない間に、崩御の知らせを聞いた」。
以上 “我が半生 上巻”より

 薄幸の皇帝、光緒帝は、本当に病に倒れたのでしょうか?
或は、同治帝や東太后と同様に、西太后の手に掛かってしまったのでしょうか?
しかし、この頃、清朝の命脈も当に尽き様としており、1912年2月、宣統帝は退位し、此処に清朝は事実上滅亡しますが、その水面下で暗躍した人物が、軍閥の巨頭袁世凱で在り、清朝の国務総理大臣と成りながら、一方では、国民党と手を結び、清朝打倒の後には、中華民国政府の初代大統領に就任する事と成ります。

本編終了・・・
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