<世界史の流れ7・漢と匈奴>
匈奴討伐
紀元前221年、秦の始皇帝は天下を統一し、歴史上確認されている中で、中国において最初の大帝国を建設しました。
但し、始皇帝に関する出生等については、以前不明のままで、勿論、秦の王位継承者として生れてのでしょうが、実の父親は、宰相の呂不韋であったとも云われています。
ともあれ、始皇帝の治績は偉大であり、統一政治の推進は、広大な中国大陸を一つの帝国のもとに包括させ、中国民族の居住地域を今日の規模に近い程迄に拡大させ、中国の力がベトナム方面に迄及んだのもこの時代なのです。
折から北方のモンゴル高原には、匈奴の勢力が拡大し始め、是も又強大な国家を建設していました。
是に対して始皇帝は、旧来からの長城を修築し、“万里の長城”を築きあげますが、この長城が、この後長く中国北方の境界と成りました。
秦王朝は、15年にして滅亡し、是より漢の時代と成ります。
漢王朝は、紀元を挟んで400年間にわたり中国に君臨しますが、中国史上、最も長寿を保った王朝で在りました。
しかも漢の高祖は、平民の身分から興り、実力を持って帝国を創始し、その偉業は、後世の人々から君主の典型として描かれました。
是ほどの高祖にして、尚悩まされたのが、匈奴の領土内侵入で、高祖自等、匈奴と刃を交え大敗を被っています。
漢の勢力が匈奴の力を凌駕するのは、紀元後2世紀後半、武帝の代迄待たなければ成らず、武帝の御世、漢の勢力は絶頂期を迎える事と成ります。
さて、そもそも匈奴とは、如何なる民族に属するのでしょうか?
この部分が、今日においても明らかではなく、匈奴自等の記録が存在しない為、モンゴル系、トルコ系なのか、何れにしても、アルタイ語系に属する遊牧民族で在ったと、推定されています。

王昭君悲話
匈奴王の下に赴いた女性の哀話、匈奴と漢との狭間で揺れた小国の悲劇、この南北二大勢力の対立に纏わる話題は、大変多く、舞台は中国、モンゴル、更には中央アジアに迄にまたがって展開します。
中国人の足跡が、遠くパミール高原越え、西アジアに達するのも武帝の時代で在り、その頃、日本列島でも弥生時代を迎え、金属器の使用を知り、農耕文化を営むに至っていました。
続く・・・
スポンサーサイト
コメント