歴史の?その278:歴史に残る人々2・アナスタジア①
<歴史に残る人々2・アナスタジア①>

ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。
しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。
話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。
◎救 出
1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。
ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。
◎ボリショビキ兵に救われて
二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。
真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。
義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。
その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。
②へ続く・・・

ロマノフ家の末路を包んだ霧の中から、是までに色々な人物が登場し、皇帝一家の一員であると主張してきましたが、その大部分はロマノフ家の莫大な遺産目当ての人物達でした。
しかし、1920年2月17日にベルリンの運河から、半ば気を失って救い上げられた10代の少女の語った物語は、可也の真実性を帯びて、人々に聞き入れられました。
多くの亡命ロシア貴族も、彼女を本物と認めた程で、彼女は皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタジア・ニコライブナであると語ったのです。
話は、大変複雑で、ロマノフ家の財産の殆どは革命直前、密かにロシア国外に持ち出され、西側の銀行に預けられたとの噂が存在し、同家の財産は、現金だけで40億ドルに上ると見積もる事が出来、その他、ドイツには莫大な不動産が存在していました。
◎救 出
1918年、革命政府の発表では、皇帝自身は処刑されたが、彼の家族は処刑を逃れ、他の場所に送られ事に成っていました。
其れが事実で在るならば、皇太子か皇女が実際に後年、出現しても不思議な事では在りません。
ベルリンの運河から救い上げられたその少女は、アンナ・チャイコフスキー名義の証明書を所持しており、収容された病院で元気を回復した直後から、自分はアナスタシアであると主張し、処刑を逃れた模様を詳細に物語ました。
彼女は家族と共に、エカテリンブルグの地下室へ処刑の為に連れて行かれたと話し、銃撃を受けて負傷し、彼女は気を失いました。
しかし、意識を取り戻してみると、男女二人ずつが引く、農夫の荷車に隠されていたと云います。
◎ボリショビキ兵に救われて
二人の男性は、ボリショビキ兵の兄弟で、名前をチャイコフスキーといい、処刑には参加していませんでした。
兄弟が彼女に語ったところでは、少女は死亡したものとして、地下室に床に放置されており、兄弟が死体を地下室から運び出す事になっていました。
兄弟は、彼女にまだ息がある事に気付き、少女を密かにロシア国外へ救い出そうと決心したのだそうです。
真珠にネックレス、ドレスに縫い込まれていたエメラルドの原石を売却してお金で、少女と救出者達は、ようやくルーマニアの首都ブカレストに辿り着き、其処で一行は、チャイコフスキーの親類宅に身を寄せました。
少女は、革命政府を恐れる余り、隠れ家から一歩も外出する事なく、やがて兄弟の一人と結婚して、子供を一人もうけました。
その後、間もなく、夫は路上で革命政府の通報者によって、脱走兵として射殺され、彼女もまた病に倒れ、子供は養子に出されてしまいます。
義弟セルゲイ・チャイコフスキーは、彼女をベルリンへ連れて行く事とし、其処ならば革命政府の目からより安全と思われたからです。
しかし、恐怖に満ちた旅路の果てに辿り着いたベルリンで、セルゲイは姿を消し、少女は疲れ果て、絶望の余り運河にみを投じて自殺を図ったのでした。
その後10年間、彼女はロマノフ家の一員として、資格回復と帝室財産の相続権を主張し続け、皇帝支持者との接触を繰り返します。
②へ続く・・・
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