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2010/09/15

歴史の?その287:歴史に残る人々⑩・戦国の武将 越後の龍

<歴史に残る人々⑩・戦国の武将 越後の龍>

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 最強でありながら、天下への野心を抱かなかった聖将であり、越後守護代 長尾為景の末子として春日山城に生を受けました。
幼少の頃に林泉寺へ入り、仏教を学び、慣例通りに父為影亡き後、当主となった兄 晴影でしたが、元より病弱で、苛烈な戦国時代を生き抜く力がないと見限った家臣団の懇願により、春日山城に入り家督を相続します。
当時未だ20歳の若武者であったが、戦場での強さに比類は在りませんでした。
特に武田信玄との第四回川中島の合戦は有名で、戦国を代表する最強武将同士の熾烈な戦いであったと伝えられています。

 ではなぜ、それ程の強さを誇った謙信が、広い領土も持たず、戦国期の主役へと躍り出ることがなかったのでしょう?

 一つには領土欲の無さでしょうか?
謙信は武田や北条に領土を奪われた、豪族などの要請により各地に出向いては、一時的に領土を回復し、すぐに越後へと帰還してしまいます。
本来、領土は財を生み、国力・軍事力などを蓄える事で、外交でも有利に展開させる事が可能になるのですが、謙信はそれを行ないませんでした。

 二つ目には、謙信は戦国時代という時代の変化に対応できなかったと、思えるのです。
古くからの官職や慣例にこだわる事で、自らの行動範囲を限定してしまったと言えます。

 三つ目は越後の風土。
雪深い越後では、当然、冬場での行軍は不可能に近く、また兵農分離も出来ていなかった越後軍は、収穫期になる頃には、国へ引き上げざるを得ませんでした。

 謙信の姿は、圧倒的な戦争の強さと、敬虔な仏教徒としての絶対的な信仰、厚い義理人情が、大きな要因ではなかったかと思うのです。

 武田信玄が死の間際、勝頼に残した言葉
「謙信は信頼に値する人間。若輩のお前が頼りにすれば嫌とは言わないだろう」
最大の敵にここまで言わせた上杉謙信と、最大の敵を信頼できる度量を持った武田信玄の素晴らしいライバル関係は、今でも戦国時代の一際熱い物語として語り継がれています。

続く・・・
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