歴史の?その294:歴史に残る人々⑰・ロマノフ家最後の1年その1
<歴史に残る人々⑰・ロマノフ家最後の1年その1>

嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。
革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。
ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。
◎白軍の脅威
1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。
モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。
◎地下室の惨劇
1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。
皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。
皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。
明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。
4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。
その2へ続く・・・

嘗て、全ロシアに君臨した皇帝ニコライ・ロマノフは、「数えきれない邪悪な罪」によって処刑された、と1918年7月末、モスクワのボリショビキ革命政府は発表しました。
公式発表に続いて、皇后や皇太子、王女達が秘密の場所に移された事も告げられました。
革命政府は、しかし処刑の報告を一度ならず訂正し、真相そのものに強い疑惑を残したのです。
皇帝一人が死刑に処されたか否か、歴然とした証拠は歴史家も把握していません。
皇帝と一緒に王家の一族も銃殺されたのか、其れとも一族全員が秘密裏に亡命したのか、当時判然としていなかったのです。
ニコライ2世は1917年春、ロシア革命で権力の座から追われ、皇后アレクサンドラと5人の子供達(アレクセイ・オリガ・マリア・タチアーナ・アナスタシア)共々セントペテルブルグ郊外のツァールスコエ・セロの宮殿に革命政府によって幽閉されました。
◎白軍の脅威
1917年8月、皇帝一家は、シベリアの寒村、トボリスクに移送されました。
ここは、辺鄙な田舎町で、皇帝支持派からの救援は、ほとんど期待できませんでした。
1918年に成ると、皇帝一家は再び、ウラル山脈に近い町、エカテリンブルグの一軒家に移されます。
エカテリンブルグの住民は、革命政府派で皇帝一家に冷たく接しました。
その間、皇帝支持派は、幾度か皇帝奪還を試みたものの、成功しませんでした。
モスクワの革命政府が、皇帝処刑を決意(現在も諸説在り)したのは、皇帝が自由を得て、白軍の指導者になる危険を恐れた為であったと思われ、その脅威が無ければ、皇帝死亡を公表して事実を隠匿する可能性も考えられます。
◎地下室の惨劇
1918年7月の革命政府発表は世界に、とりわけロマノフ家と血縁関係にあるヨーロッパ王室に衝撃を与えました。
しかし、数ヶ月後更に恐ろしいニュースが伝わり、皇帝一家は全員、1918年7月19日の夜、銃殺隊によって処刑されたと革命政府が発表したのでした。
報告によると、処刑命令はモスクワ(ウラル州革命政府説在り)から届けられ、ユーロフスキーの指揮の下、死刑宣告が成され、一家殺戮の最初の引き金は、彼自らが執行したのでした。
皇帝一家は、事前に何も知らされず、彼らは階段を下りて地下室へ行き、其処で一列に椅子に座らされ、ユーロフスキーの射撃命令を合図に、一斉射撃が行われました。
彼らが使用した銃は、この非常な任務の為に、特に兵器庫から持ち出した、当時最新の連発銃でした。
皇帝一家には、宮廷医ボトキン博士、3人の召使が付き添っていました。
彼らは全員、皇帝一家と行動を共にする様、命じられており、射撃が終了した時、床には11人の遺体が転がり、兵士達は、銃剣とライフル銃の台尻で、一人一人その死亡を確認したのです。
明け方、死体は待機していたトラックに積まれて、エカテリンブルグから23km離れた“四人兄弟鉱山”へ運ばれ、其処でガソリンを撒かれ火葬にされ、焼き尽くされた遺体と、手回り品は硫酸で溶かされ鉱山の廃坑に遺棄されました。
4日後の7月23日、エカテリンブルグが白軍によって陥落しましたが、地下室の壁の一部は既に洗い落とされていましたが、部屋にはまだ血痕が残っていました。
しかし、其れが皇帝一家のものであるか否か、当時確認する術は在りませんでした。
その2へ続く・・・
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