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2010/10/04

歴史の?その303:歴史に残る人々26・ドレフュス大尉の免罪

<歴史に残る人々26・ドレフュス大尉の免罪>

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 フランス陸軍内部で、スパイ事件が発生し、最も有力な容疑者は、アルフレッド・ドレフュス大尉と目されました。
大尉は勤勉実直な人物で、有能で在るが故に同僚の嫉みを買っていました。
当時は、反ユダヤ感情の盛んな頃で、彼がユダヤ人(系)で富豪の出身である事も嫉妬に油を注ぐ結果と成りました。

 事件の発端は1894年、パリ駐在のドイツ軍武官マックス・フォン・シュワルツコッペン大佐宛の一通の手紙が、フランス軍参謀本部の手に入った時でした。
その手紙には、数多くの軍事機密事項が列記され、代償を要求していました。
参謀本部は、ドイツに対する内通者が存在する事を知ると、その生贄に成るべき人物を必要としたのです。
取得可能な情報から判断して、犯人は参謀本部に勤務する以前に、幾つかの部隊で兵役を勤めた、下級砲術将校であると判断され、この条件に該当する人物が、ドレフュス大尉で在り、手紙の筆跡も彼のものに似ていました。

 しかし、軍法会議での訴追には、証拠が不十分で、しかもドレフュス大尉の軍歴は第1級であり、専門家は証拠の手紙を彼の筆跡とは、断定しませんでした。
法廷がドレフュス大尉の釈放を決定しようとした時、予備審問を担当した、参謀本部の情報将校ユベール・ジョゼフ・アンリ少佐が介入し、密封された手紙が、法廷に提出されました。

 封書には、イタリア大使館付武官パニッツァルディが、フォン・シュワルツコッペン宛に書かれたもので、其処には、フランスの売国奴の名前が「あの汚いイヌのD」と記されていたのです。
この瞬間、ドレフュスは有罪となり、悪魔島へ終身流刑を宣告されました。

ドレフュス裁判から僅か2年後、フランス軍の機密が漏れ続けている事が発覚し、参謀本部は再び調査を開始します。
そして、事件調査を担当したピカール中佐は、ドレフュス事件にも重大な疑問を抱き始めます。
しかし、軍首脳部は、1人のユダヤ人(系)よりも軍の名誉を重んじ、ピカール中佐はチュニジアに配置転換を受け、事件は闇に消えるかと思われました。

 しかし、事実を白日の下に曝したのは、アンリ少佐自身で、ドレフュスが有罪の決め手となった、問題の手紙を偽造したのは少佐自身であり、ピカール中佐の調査を知った彼は、ドレフュス事件の記録を抹消し、証拠の隠滅を図りますが、その時既にピカール少佐によってドレフュス事件の記録は、写真撮影され、友人の弁護士ルブロウに預けられていたのです。

 アンリは逮捕され、罪を告白し自殺します。
その間に、本物のスパイ、フェルディナン・ワルサン・エステラジー陸軍少佐は、ロンドンに亡命します。
ドレフュス大尉逮捕後、4年目の事でした。
ドレフュス大尉が自分の名誉を回復する為には、更に8年の歳月を要し、1906年、彼は軍役に復帰し、レジョン・ドヌール勲章を授与され、第一次世界大戦で現役に復帰し、1935年パリで死去します。
76歳でした。

続く・・・
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