<歴史に残る人々35・リビングストン博士とアフリカ大陸その3>
◎スタンリーの登場 其れまで定期的に送られていた、手紙が止まり、博士の消息を危ぶむ声が日増しに増大する中、1871年2月、ヘンリー・モートン・スタンリー記者が、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員として、リビングストン博士捜索に旅立ちました。
スタンリーは、食料を始めとする資材、物資を充分に準備し、キャラバンを編成して、ザンジバルを出発し、リビングストンの消息を知らせる手掛かりを追って、ほぼ9ヶ月後の11月10日、ウジジの町に到着しました。
スタンリーは、其処で探検家リビングストンの疲れきった姿を見ました。
彼は、幕舎の前の空き地に建ち、自分を救出する為に、こんなにもはるばる遣って来てくれた事に驚き、救援隊を見つめていました。
二人のこの出会いを、スタンリーは自伝の中で、次の様に書いています。
“私は、彼の所へ歩いて行き、ヘルメットを取り、お辞儀をしておずおずと言った。
「リビングストン博士でいらっしゃると思いますが?」
如何にも誠実な笑いを浮かべて、彼は帽子を脱ぎ、ただ一言「イエス」と答えた。
是で私の疑念は一切消え去り、顔には隠し様も無い、心からの満足感が広がった。
私は手を差し出し、「お会いできる様にして下さった神様に感謝します」と言った。
彼は暖かく私の手を握り、優しい声で話をした。
私も彼も心から感動している事を感じた。
彼は言った。
「貴方をお迎えできて、本当に有り難く、感謝しています」と。“
◎遣り残した多くの仕事 スタンリーの救いの手が、早すぎた訳では決してなく、博士の病状は、非常に重く成っていたのでした。
ロンドンに帰れば、歓呼の声で迎えられる事は確実ですが、スタンリーが帰国を勧めても、決して耳を貸そうとしませんでした。
「私は、まだたくさんの仕事をしなければ成らないのです」と博士は語り、4ヶ月後スタンリーは引き上げました。
医薬品や食料を充分に補給して貰った博士は、再びナイル源流探索の旅に出かけました。
しかし、博士に残された寿命は、もう長く有りませんでした。
数ヶ月の内に、体力は更に低下し、担架で運ばれる事も有りました。
1873年5月1日の朝、従者が博士の小屋に入って行くと、博士はベッドの側に跪き、両手の上に額を載せ、ちょうどお祈りをしている様な姿でしたが、いくら起こしても、二度と目覚める事は有りませんでした。
村から村へと、この悲報は伝わり、何千人ものアフリカ人が遣って来て、最後のお別れしました。
博士の従者である、スージーとチューマは、博士の故国の人達が遺体を引取り、埋葬したいと思っている事を知っていましたから、二人は、博士の心臓だけを取り、其れが属する場所、アフリカの大地に埋めたのです。
そして、遺体はザンジバルから故国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に安置されたのでした。
本編終了・・・
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