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2010/11/09

歴史の?その330:発見の歴史13・誤って発見された新世界2

<発見の歴史13・誤って発見された新世界2>

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◎法外な要求

 コロンは、ついでポルトガルのホアン二世に、同様な働きかけを行いましたが、此方も了解を得られず、1491年再び、イザベル女王に援助を求めたものの拒絶されました。
女王が拒否した最大の理由は、彼の要求が余りにも法外であったからで、コロンは、この大航海が成功した時には、自分を大洋提督と発見した国土全部の総督に任命し、更に航海で発見した財宝の10%を自分の物とする権利を求めたのでした。

 その後、女王は心変わりして、彼のこの要求を受諾しますが、是は当時、スペインとポルトガルが、新世界発見をめぐって激しく競り合っていたからに他なりません。

 こうして、サンタ・マリア号はピンタ号とニーナ号の2隻の随伴船を伴い、世界で最も有名な航海に出帆したのでした。
総勢約90名、船毎も1名の医師が乗り、通訳も1名居ました。
コロンは、この通訳のアラビア語が、中国や日本(!)で役立つと考えたのです。

 さて、最初の航海で新世界に到達した彼は、美しいカリブ海の島々の間を航海して、数週間を過ごし、帰国の途に就きます。
彼は其の後も、この新世界へ三度の航海を経験しました。

 結果的に、余りにも野望が大きすぎた為、彼は女王に嫌われ、世の中に忘れ去られ、ひどい失意と落胆の内に、関節炎に苦しみながら、1506年5月20日に死亡しました。
皮肉な事に、彼が発見した大陸は、彼の友人で冒険家のイタリア商人、アメリゴ・ベスプッチの名前に因み、アメリカと命名されましたが、クリストバル・コロンの死から1年後の事でした。

補遺・クリストバル・コロン 流離の航海

 彼は、1506年5月20日、スペインのバリャドリードで死去、その地の教会に埋葬されました。
しかし、3年後、彼の棺はセヴィーリア近郊のトリアナに移され、それから更に32年後、遺体はサントドミンゴ(現:ドモニカ共和国)に埋葬し直されます。
しかし後年、ハバナに移され、更には1902年には又、安息を乱されセヴィーリアに移されたと考えられていました。

 1877年、サントドミンゴ大聖堂の地下に、新たな納骨堂が発見され、此処には”C,C,A”とイニシャルの付いた棺が在り、「クリストバル・コロン・アドミランテ(提督)」の頭文字と推定されました。
碑銘には、「輝く、有名な紳士、ドン・クリストバル・コロン」と書かれており、現在では、サントドミンゴ大聖堂の遺体が、本人の遺骸で或る事に間違いないと信じられています。

本編終了・・・

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