歴史の?その352:人類の築いた物④・クラク・デ・シュバリエ
<人類の築いた物④・クラク・デ・シュバリエ>

クラク・デ・シュバリエは、十字軍がシリア砂漠のほぼ中央に造営した城砦です。
難攻不落の城砦と云われてきましたが、1271年に陥落してしまいます。
其れもたった1羽の鳩の為に。
十字軍は、シリア砂漠の岩山が突き出した部分に城を建てました。
この地は、イスラム教徒の町、ホムスと地中海東岸のキリスト教徒の町、トリポリを結ぶ幹線道路を押さえる事が出来る、戦略上の拠点でも在りました。
1090年、十字軍が遠征したおり、此処には小さな城が既に存在し、クルド族の守備隊が駐留していました。
其の後、この城はキリスト教徒である、トリポリ伯爵の手に渡り、更に伯爵によって、エルサレムの聖ヨハネ騎士団に与えられたのでした。
以後、50年に渡って騎士団は、この小さな城を難攻不落の城砦にまで改修を、繰り返したのです。
サラセンは、この城砦を執念深く攻略を繰り返し、少なくとも12回の攻防戦の記録が、伝えられています。
◎弱 点
この城砦には、2箇所の防御上の弱点が存在しました。
城砦正面の正門と平地から直接繋がる南側の箇所を、騎士達は、堅固な城壁を築き、3基の望楼も付け加え、更に城壁の下を砂礫や石材で埋め、最大部分の厚さは24mに達し、城壁の下にトンネルを掘削する事は、もはや不可能でした。
正面の門については、曲がりくねった急な坂道を、登る様に改修しました。
この改修で、正面から侵攻しようとする敵は、幾度も集中攻撃を受ける結果となり、例え正門に辿りついても、堅牢な楼門に阻まれこれ以上の侵入は、不可能でした。
無闇な攻撃は、侵略者側にとって、味方の死傷者を増やすだけで在り、更に包囲戦に持ち込む事は、同様に長期戦を強いられました。
主要な十字軍の砦は、何処も同じですが、クラク・デ・シュバリエも、膨大な食糧や水を蓄えており、その量は、2000人の守備隊が少なくとも1年間、飲み食いしながら戦うに十分で、その間に救援、増援部隊を呼ぶ事も可能でした。
◎陥 落
クラク・デ・シュバリエは、難攻不落の城砦の様に思われ、事実、英知と勇猛さで名声を上げた、サラディンでさえ、この城砦を落とす事ができず、後退した程でした。
しかし、1271年イスラムの指導者の1人バイバルスが、十字軍の砦や町を次々に席捲し、最後に残ったクラク・デ・シュバリエを攻略する為、エジプト軍を伴って侵攻して来たのです。
この時、城砦の守備軍は大変手薄に成っており、第8次十字軍遠征失敗の1年前で、増援部隊を望む事は、もはや不可能でしたが、砦に残った修道士達は、傭兵を指揮して頑強に抵抗しました。
バイバルスは、頑強な抵抗の壁を一枚一枚剥がすような努力を重ね、始め彼は、懸命に城壁の下を掘ったのですが、南西側の外壁が壊れた時、その後に内側の防護壁が大きく、立ちはだかっていたのでした。
◎策 謀
バイバルスは敗北を認める事は出来ず、更にこれ以上の長期戦に持ち込む考えも在りませんでした。
彼は、伝書鳩を使い、トリポリのホスピタル騎士団指揮官の名前を騙り、「援軍を送る事が、出来ないので、降伏せよ」との内容の手紙を送り、その命令は守られ、ここに難攻不落として知られたクラク・デ・シュバリエは陥落したのでした。
バイバルスは、降伏した守備隊を騎士道に従って寛大に扱い、自由にトリポリに行かせたと云います。
この城砦の保守状態は、大変良く、現在でも往事の姿をそのまま伝えており、軍事的な建築物の見本として、最高の物の一つに数えられています。
アラビアのローレンスの言葉を借りれば、「クラク・デ・シュバリエは、手放しで絶賛できる、世界最高の城」なのです。
続く・・・

クラク・デ・シュバリエは、十字軍がシリア砂漠のほぼ中央に造営した城砦です。
難攻不落の城砦と云われてきましたが、1271年に陥落してしまいます。
其れもたった1羽の鳩の為に。
十字軍は、シリア砂漠の岩山が突き出した部分に城を建てました。
この地は、イスラム教徒の町、ホムスと地中海東岸のキリスト教徒の町、トリポリを結ぶ幹線道路を押さえる事が出来る、戦略上の拠点でも在りました。
1090年、十字軍が遠征したおり、此処には小さな城が既に存在し、クルド族の守備隊が駐留していました。
其の後、この城はキリスト教徒である、トリポリ伯爵の手に渡り、更に伯爵によって、エルサレムの聖ヨハネ騎士団に与えられたのでした。
以後、50年に渡って騎士団は、この小さな城を難攻不落の城砦にまで改修を、繰り返したのです。
サラセンは、この城砦を執念深く攻略を繰り返し、少なくとも12回の攻防戦の記録が、伝えられています。
◎弱 点
この城砦には、2箇所の防御上の弱点が存在しました。
城砦正面の正門と平地から直接繋がる南側の箇所を、騎士達は、堅固な城壁を築き、3基の望楼も付け加え、更に城壁の下を砂礫や石材で埋め、最大部分の厚さは24mに達し、城壁の下にトンネルを掘削する事は、もはや不可能でした。
正面の門については、曲がりくねった急な坂道を、登る様に改修しました。
この改修で、正面から侵攻しようとする敵は、幾度も集中攻撃を受ける結果となり、例え正門に辿りついても、堅牢な楼門に阻まれこれ以上の侵入は、不可能でした。
無闇な攻撃は、侵略者側にとって、味方の死傷者を増やすだけで在り、更に包囲戦に持ち込む事は、同様に長期戦を強いられました。
主要な十字軍の砦は、何処も同じですが、クラク・デ・シュバリエも、膨大な食糧や水を蓄えており、その量は、2000人の守備隊が少なくとも1年間、飲み食いしながら戦うに十分で、その間に救援、増援部隊を呼ぶ事も可能でした。
◎陥 落
クラク・デ・シュバリエは、難攻不落の城砦の様に思われ、事実、英知と勇猛さで名声を上げた、サラディンでさえ、この城砦を落とす事ができず、後退した程でした。
しかし、1271年イスラムの指導者の1人バイバルスが、十字軍の砦や町を次々に席捲し、最後に残ったクラク・デ・シュバリエを攻略する為、エジプト軍を伴って侵攻して来たのです。
この時、城砦の守備軍は大変手薄に成っており、第8次十字軍遠征失敗の1年前で、増援部隊を望む事は、もはや不可能でしたが、砦に残った修道士達は、傭兵を指揮して頑強に抵抗しました。
バイバルスは、頑強な抵抗の壁を一枚一枚剥がすような努力を重ね、始め彼は、懸命に城壁の下を掘ったのですが、南西側の外壁が壊れた時、その後に内側の防護壁が大きく、立ちはだかっていたのでした。
◎策 謀
バイバルスは敗北を認める事は出来ず、更にこれ以上の長期戦に持ち込む考えも在りませんでした。
彼は、伝書鳩を使い、トリポリのホスピタル騎士団指揮官の名前を騙り、「援軍を送る事が、出来ないので、降伏せよ」との内容の手紙を送り、その命令は守られ、ここに難攻不落として知られたクラク・デ・シュバリエは陥落したのでした。
バイバルスは、降伏した守備隊を騎士道に従って寛大に扱い、自由にトリポリに行かせたと云います。
この城砦の保守状態は、大変良く、現在でも往事の姿をそのまま伝えており、軍事的な建築物の見本として、最高の物の一つに数えられています。
アラビアのローレンスの言葉を借りれば、「クラク・デ・シュバリエは、手放しで絶賛できる、世界最高の城」なのです。
続く・・・
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