歴史の?その357:人類は築いた物⑨・太陽王の宮殿その2
<人類は築いた物⑨・太陽王の宮殿その2>

この庭園の最大の呼び物は、泉と滝で、是には膨大な水道設備と巨大な揚水設備が必用で、セーヌ河から導水する為に1681年から1684年に渡って「マリルの機械仕掛け」を作り導水する計画でしたが、この装置は度々故障を繰り返し、計画通りには進みませんでした。
その為、今度は、ユール川の流れを変える計画が実行に移されたものの、人命の犠牲、財政支出は膨大となり、1686年に中止と成りました。
是は、人命の喪失や、財政圧迫が原因で工事が中止に成ったのではなく、無報酬労働部隊の兵士が、本業の戦争に必用と成ったからでした。
結局、ベルサイユとランブイエの間にある台地の水を集め、水路網を通じて庭園に流し込む方法が採用されました。
◎不 便
1682年、宮廷がベルサイユに移り、1789年迄此処は、フランス国王の住まいと成りました。
其れまでのルイ14世の宮殿同様、壮大華麗な建造物で、9000人の軍隊、1000人の廷臣、4000人の召使が生活をともにしましたが、豪華で華麗な部屋の数々も、日常の生活には不便な事この上なく、暖房は事実上不可能、トイレ等の衛生設備も皆無でした(!)。
ルイ14世の死後、その曾孫にあたるルイ15世がベルサイユ宮殿を更に増築し、この部分が後日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットお気に入りの休息場所となった「小トリアノン」なのです。
ルイ16世は、マリー・アントワネットの為に続きの間を増築しました。
しかし、ベルサイユ宮殿の権力と影響力は、1789年のフランス革命で終焉を迎えます。
革命後、家具調度品や装飾品は、売却され、盗まれ、宮殿自体も手入れもされず放置されていましたが、修復作業は19世紀半ば、ルイ・フィリップによって行われ、アメリカ合衆国が是をしました。
時代は移り、ベルサイユ宮殿は、王朝政治華やかなりし頃を象徴する、博物館として今日に至っています。
補遺「マリルの機械仕掛け」
水不足は、終始ベルサイユに付きまとった大問題でした。
飽くことを知らない、ベルサイユの需要を満足させる事が可能な水量が、確保された事は一度も在りませんでした。
庭園用だけでも、ルイ14世は1400の泉への給水を命じました。
必用な水量は、パリ全体の需要を賄うに足る程で、国王がベルサイユ宮殿の庭を散策するとき、庭園付の召使が制御装置を操作し、噴水が出る様にしました。
もし、噴水が作動していなければ、庭園監督官は、罰金を徴収されたそうです。
ルイ14世が、庭園を潤うに足る大量の水を求めた事が契機となり、さまざまな計画や発明が生れたのでした。
その内、現在でも最も有名な機械装置が、巨大な「マリルの機械仕掛け」なのです。
建造が始まったのは、1681年で、その目的は本文でも触れた様に、セーヌ河から絶え間なく水を汲み上げる事でした。
幅11mの巨大な14機の水車が221個のポンプを稼動させ、セーヌ河に続く丘の斜面を、160mの高さ迄水を運び上げる事に成っていました。
工事の完成は、1684年、この後、水をベルサイユ近郊の貯水池迄送る為の水道工事が始まりましたが、この大掛かりな機械は、故障が頻発し、その修理維持に莫大な費用が掛ったのでした。
終わり・・・

この庭園の最大の呼び物は、泉と滝で、是には膨大な水道設備と巨大な揚水設備が必用で、セーヌ河から導水する為に1681年から1684年に渡って「マリルの機械仕掛け」を作り導水する計画でしたが、この装置は度々故障を繰り返し、計画通りには進みませんでした。
その為、今度は、ユール川の流れを変える計画が実行に移されたものの、人命の犠牲、財政支出は膨大となり、1686年に中止と成りました。
是は、人命の喪失や、財政圧迫が原因で工事が中止に成ったのではなく、無報酬労働部隊の兵士が、本業の戦争に必用と成ったからでした。
結局、ベルサイユとランブイエの間にある台地の水を集め、水路網を通じて庭園に流し込む方法が採用されました。
◎不 便
1682年、宮廷がベルサイユに移り、1789年迄此処は、フランス国王の住まいと成りました。
其れまでのルイ14世の宮殿同様、壮大華麗な建造物で、9000人の軍隊、1000人の廷臣、4000人の召使が生活をともにしましたが、豪華で華麗な部屋の数々も、日常の生活には不便な事この上なく、暖房は事実上不可能、トイレ等の衛生設備も皆無でした(!)。
ルイ14世の死後、その曾孫にあたるルイ15世がベルサイユ宮殿を更に増築し、この部分が後日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットお気に入りの休息場所となった「小トリアノン」なのです。
ルイ16世は、マリー・アントワネットの為に続きの間を増築しました。
しかし、ベルサイユ宮殿の権力と影響力は、1789年のフランス革命で終焉を迎えます。
革命後、家具調度品や装飾品は、売却され、盗まれ、宮殿自体も手入れもされず放置されていましたが、修復作業は19世紀半ば、ルイ・フィリップによって行われ、アメリカ合衆国が是をしました。
時代は移り、ベルサイユ宮殿は、王朝政治華やかなりし頃を象徴する、博物館として今日に至っています。
補遺「マリルの機械仕掛け」
水不足は、終始ベルサイユに付きまとった大問題でした。
飽くことを知らない、ベルサイユの需要を満足させる事が可能な水量が、確保された事は一度も在りませんでした。
庭園用だけでも、ルイ14世は1400の泉への給水を命じました。
必用な水量は、パリ全体の需要を賄うに足る程で、国王がベルサイユ宮殿の庭を散策するとき、庭園付の召使が制御装置を操作し、噴水が出る様にしました。
もし、噴水が作動していなければ、庭園監督官は、罰金を徴収されたそうです。
ルイ14世が、庭園を潤うに足る大量の水を求めた事が契機となり、さまざまな計画や発明が生れたのでした。
その内、現在でも最も有名な機械装置が、巨大な「マリルの機械仕掛け」なのです。
建造が始まったのは、1681年で、その目的は本文でも触れた様に、セーヌ河から絶え間なく水を汲み上げる事でした。
幅11mの巨大な14機の水車が221個のポンプを稼動させ、セーヌ河に続く丘の斜面を、160mの高さ迄水を運び上げる事に成っていました。
工事の完成は、1684年、この後、水をベルサイユ近郊の貯水池迄送る為の水道工事が始まりましたが、この大掛かりな機械は、故障が頻発し、その修理維持に莫大な費用が掛ったのでした。
終わり・・・
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