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2011/03/12

人類の軌跡その32:栄光③

<アレクサンドリアの図書館・灯台その3>

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◎灯台に纏わる伝説

 アラブ人は7世紀以後エジプトを支配しましたが、彼等の語る処によれば、燃える炎が反射鏡で照らし出されると、43km先の海上を見る事が可能で、晴れた日には、マルマラ海の対岸、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の町の様子が反射鏡に映り、又日光を反射させると、160km先の船舶を焼く事ができたと云います。
残念ながら、当時の研磨技術では、上記の様に太陽光を集約する事は不可能でしょうが、ソストラトスがある種の強力な光を反射するレンズ乃至反射鏡を考案した事は間違いなく、近代レンズ乃至反射鏡の創意を先見した事は疑う余地が有りません。

 ファロスの灯台は、長い期間現存し、カエサルやクレオパトラ、アントニウスの船の為の道しるべと成ったに違いなく、その崩壊を早めたのはアラビア人の軽挙と貪欲に他なりませんでした。
エジプトがアラブの支配下に入っても、ファロスの灯台は大切に維持管理されて、海上交通の力強い助けに成っていましたが、850年頃、神聖ローマ帝国とイスラム勢力の間に抗争が始った時、その存在は、イスラム勢力にとっては好都合でしたが、神聖ローマ帝国側には、不都合極まり無い存在でした。
神聖ローマ帝国は、当時アレクサンドリアを支配していたカリフ、アル・ワリドの許へ密使を送り、灯台の下に莫大な財宝が埋蔵されていると云う、デマ情報を流しまし、欲深なカリフは、この策謀に填りすぐさま部下に灯台の解体を命じたのです。
カリフが罠に填ったと気づいた時には、灯台は大方解体されてしまい、その再構築の命令も当時のアラブ人の手に余る仕事だったのです。
その心臓部とも言える反射鏡を元の場所に戻す作業が、大失敗し反射鏡は地面に落下、しかも新しく造る術を彼等は知りませんでした。
後年、反射鏡を失った灯台の建物は、イスラム教のモスクとして利用されるだけでした。

 時代が下り、アレクサンドリアはカイロ市(エル・カーヘラ)の建設と共に寂れ、灯台は基礎部分がその面影を残していましたが、1375年ナイル・デルタを襲った地震の為、完全に破壊されその残骸を取り片付けるだけで、100年もの時間を要したと云われています。
その後、灯台の事は忘れられ、ファロスの名前のみが残り、遺跡自体の位置さえ判らなく成りましたが、20世紀初頭、ドイツの考古学者によって、カイトバイ堡塁近郊で灯台の所在を確認し、現在ではその位置が、アレクサンドリアのファロスの跡と認められています。

続く・・・

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