人類の軌跡その40:現代に伝わる建造物⑦
<万里の長城その1>

◎長城の起源
或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。
万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。
◎長城の構造
長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。
万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。
北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。
続く・・・

◎長城の起源
或る天文学者が、宇宙空間から地球を観測した時、人間の眼に映る人工物体は、万里の長城だけであると言ったそうです。
万里の長城は中華人民共和国の北辺、モンゴル地域との間に築かれた城壁で、東は河北省の山海関から西は甘粛省嘉峪関に至る2750kmの総延長を誇り、この造営には凡そ100万人以上の人員が命を失い、巨額の費用に国は傾いたと云われています。
万里の長城が築かれたのは、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前403年)ですが、紀元前3世紀に秦の始皇帝が天下を統一すると供に、北辺に築かれていた土塁を繋ぎ合わせ、匈奴に対する防衛線を形作り、東は遼東(遼陽)から西は臨洮に至る長さ、万余里と云われ、現在の長城の場所よりも遥か北部に位置していました。
漢の時代、長城は敦煌の西、玉門関迄延長され、現在に位置迄南下したのは、6世紀頃、北斉、隋が契丹や突厥等の侵入を警戒して築いた為でした。
しかし、現在見られる様な堅固な城壁は、明代に成ってからの造作で、強力な蒙古の攻勢に対応する為、歴代の皇帝によって修築を繰り返した結果なのです。
◎長城の構造
長城の構造は、古くはその殆どが土塁であり、通常板築法を採用していますが、部分的には日干し煉瓦か石積みを施し、地形によっては、自然の断崖を利用し、要所には煉瓦を用いて補強する場合も在りました。
この地上に現存する人間の手になる物の内、実際の大きさ、積み重ねた土砂、煉瓦、石等の量、建設の為の労力等、何一つ長城に勝る物は存在しないと、思われます。
万里の長城に使用した資材で、高さ2.5m、厚さ1mの城壁を築くと地球の赤道面4万kmを1周する事が可能と云われています。
北京北西の八達嶺付近の長城は、高さ9m、幅上部4.5m底部9m在り、壁上は北側(満州・蒙古側)に向かって、銃眼が開き、下方からの攻撃を食い止める工夫が成されて、100m毎に望楼が設けられ、周囲の山の起伏に沿って延々と続いています。
城壁の3m幅の通路に成っていますが、車両も荷馬車も通る事はできず、僅かに動物と健脚を誇る人間だけがこの傾斜通路を通る事ができます。
通路は急傾斜の場所は、階段が造られ、川で遮られた場所のみ長城は途切れ、その場所は砦に成っています。
続く・・・
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