人類の軌跡その41:現代に伝わる建造物⑧
<万里の長城その2>

◎受難の民
万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。
其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。
何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。
この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。
続く・・・

◎受難の民
万里の長城が最初に構築されたのは、春秋戦国時代ですが、その工事が本格化したのは、秦の始皇帝の時代からなのです。
当時、中国は既に高い文明を有し、繁華な都市は常に侵略者の対象に成り、その侵略者は主に、北方の蒙古や満州方面からの侵入でした。
その地には、女真族、匈奴等の遊牧民族が暮らし、実りの季節に成ると当時中国の最も豊穣な地域を略奪し、都市や其処に住む民を疲弊させたのです。
其処で秦の始皇帝は、北方からの異民族の侵入を防衛する目的で、万里の長城を築いたと云われています。
始皇帝は、あらゆる自然的、財政的、人的障害を乗り越えて城壁の建設に邁進しました。
遥か東部の海岸線から始まった巨大防塁は、西へ西へと進み、高山の頂きや深い谷を横切り、外敵の防御に最も都合の良い、最も険しい場所を選んで築城されて行きました。
伝説に因れば、始皇帝は翼を持った馬に跨り、馬の導くままに長城を築いたと云われています。
工事が進むに従い、多くの石工や労働者が必要に成り、止む無く秦の国軍に工事を従事させ、更には国土内の牢獄につながれている囚人達も動員して、石切り場、煉瓦工房、城壁の築城現場に派遣したと云われています。
当時、秦の国に如何程の人口が在ったのか定かでは有りませんが、人口の3人に1人の割合で建設に徴用されたものと思われます。
何万人と云う、過酷な労働者達は、十分な水も食料も無い不毛の山地や砂漠の中で、牛馬の様に使役され、その飲料水や食料は山頂や砂漠の工事現場迄、何里もの道のりを運ばざるを得ませんでした。
この様な過酷な状況の中で、膨大な人数の人間が死んで行き、その死者達は、長城の人柱として無慈悲に長城内に埋められて行き、その上に土が盛られ長城は築かれて行きました。
その為、万里の長城は世界で最も長い墓場であると云う人も居ますが、犠牲者の数は少なくとも100万人に達したと推定されています。
この様に多大な犠牲を払って造られた長城ですが、実際には異民族の侵入を阻止する事は不可能で、彼等は何も無かった時と同じ様に、何時でも自由に乗り越えたのでした。
秦の人々は「中国人には万里の長城に払った人命と財が重いので、之を乗り越える事は出来ないが、異民族には如何なる負担にも成らないので、容易く乗り越える事が出来る」と揶揄したのでした。
続く・・・
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