人類の軌跡その44:現代に伝わる建造物番外編2
<長城の果て・彷徨える湖>

今から2000年以上昔の事、漢時代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)」という大きな湖が在った事が記録されています。
この湖の事は、同時代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。
当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。
ところが後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。
ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。
ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。
この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。
ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。
続く・・・

今から2000年以上昔の事、漢時代の歴史書、「漢書」には、中央アジアのタクラマカン砂漠に「蒲昌海・(プーチャンハイ・ロプノール・ロプ湖)」という大きな湖が在った事が記録されています。
この湖の事は、同時代のヨーロッパ人にも知られており、地中海東岸の町、テュロスに住んでいたギリシア人マリノスの記録にも現れており、マリノスから300年程後の時代、地理学者プトレマイオスの作製した、アジアの地図にもその位置が記されています。
当時、是ほど迄に遠く離れた国の人物が、中央アジアの砂漠の中に在る湖の存在を知り得たのは、このタクラマカン砂漠を往来した隊商の通る道が、東西交流の重要な道で有ったからなのです。
この隊商路は、「シルクロード」と呼ばれ、当時ヨーロッパ人は、中国を「セリカ(絹の国)」と呼び、ヨーロッパで生産出来なかった絹を大変珍重し、同じ重さの金と交換したと伝えられています。
ところが後年、このロプ湖の存在が、全く伝わらなくなり、この地域を1273年に通過した、マルコ・ポーロも砂漠に関する記録は、多いもののロプ湖については、全く記録が存在していませんでした。
長い年月、ロプ湖は、人々の記憶から消え去りましたが、1876年にこの地方を調査した、ロシア人プルジョワルスキーが、ロプ湖の存在を確認しました。
しかし、その位置は、一度程も南に在った為、地理学者の間では、彼の発見した湖は、ロプ湖では無く、全く別の湖であるとする説と中国の地図が間違っているとの説に分かれ、大論争が起こりました。
ドイツの地理学者リヒトフォーヘンは、ロプ湖に流れ込むタリム川の流れが変化し、その為湖の位置が変化したとの説を発表したものの、当時、この事実を示す証拠が存在せず、彼の説は再考されませんでした。
その様な中、彼の弟子である、スウェン・ヘディンは、中央アジア探検を計画実行します。
ヘディンは幼少の頃、探検家ノルデンショルドが、北方航路を通過する事に初めて成功し、華々しく帰国したのを見て、自分も探検家に成ろうと決心した人物でした。
ヘディンの第一回中央アジア探検は、1893年から1897年迄の4年を要したタクラマカン砂漠の横断でした。
之は、実に苦しい探検で、彼は九死に一生を得たのですが、途中で水が欠乏し、彼の従者4人の内3人は、喉の渇きが極限に達し、ラクダの小便に砂糖と酢を混ぜて飲み、2人は死亡し、1人は、危うく死を免れる程でした。
後にヘディンは、幾度も中央アジア探検を繰り返し、1906年の第三回探検の帰途には、日本にも立ち寄っています。
又、1933年には時の中国政府の要請を受け、自動車を使用して、中央アジアを調査しました。
この探検活動を通じて、ヘディンは、彼の師であるリヒトフォーヘンのロプ湖の移動に関する学説を信じる様になりました。
ロプ湖は、水深が1mに満たない湖ですが、流れ込むタリム川が泥砂を運び込んでくる為、その泥砂が河口に体積し、川が湖に流れ込めなくなると、川は別の流路を見つけて他の低位置に流れ込み、新しい湖を形成するのだと考えられました。
ロプ湖が位置する砂漠には、その北側と南側に低地が存在し、上記の理由から、湖が移動すると結論したのでした。
ヘディンが発見した「楼蘭」は、嘗て栄華を極めた都ですが、タリム川の流路が変わり、ロプ湖が南に移動した為、都市が滅んだと考えられます。
ヘディンは、ロプ湖の位置変化を1500年周期と推定し、1928年2月20日、トルファンにおいて、彼はタリム川の流れが7年前から変化し、以前の位置にロプ湖が移りはじめている事を聞き、彼が30年前に提唱した説が立証されたのでした。
ヘディンは、この1928年2月20日を探検家、学者として自分の生涯、最良の日であると記しています。
続く・・・
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