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2011/04/03

人類の軌跡その54:清朝の黄昏①

<南京の陶塔と太平天国の乱>

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 中国南京の中華門外、雨花台の北側の三国時代、呉代(3世紀)に建立された、報国寺が在ります。
中国全省480寺の名刹としても、名高い古寺として有名です。
この寺の境内に在った「陶塔」は、その名の通り陶器で造られた塔で、この塔を遠距離から望むと、日光に映えて眼も眩むばかりだったと伝られています。
残念な事に1850年の太平天国の乱に遭遇し、原型を留めぬ迄に破壊され、現在は僅かな遺構が残るに過ぎません。

この「太平天国の乱」は、清朝末期に於いて、大きな意味を持つ反乱でした。

◎太平天国の乱・滅満興漢

 1851年,清末期に発生した大規模な反乱であり、洪秀全を天王とし,キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって主導されました。
南京条約締結以降,銀価騰貴と税金の増加により困窮化した貧農層が、洪秀全を支持し広西省金田村で挙兵し、中国初の革命政権「太平天国」を建国したのでした。
南京を攻略して首都と定め、天京と改称、洪秀全は天王として君臨しましたが、変革の不徹底と内紛激化により弱体化し、1864年に清朝側に立ったフレデリック・タウンゼント・ウォード、チャールズ・ゴードン等の指揮するアメリカ、イギリス義勇軍を主力とした軍隊によって鎮圧されました。

この反乱の特徴として

Ⅰ首領の洪秀全は広東省花県の客家出身である事。
Ⅱ西欧宗教であるキリスト教が関係している事。
Ⅲ華南地方を支配下に置き,南京を首都にした事。
Ⅳ最後は列強の軍隊によって鎮圧された事。
Ⅴこの乱の背景に急激な人口増加があった事。

 近代以降の中国の革命や反乱は、その殆どが華南で発生する傾向があり、南京が拠点となる事は、後の辛亥革命も同様なのです。
そして,最大の要因となる事象に、革命の成否が外国の意思により決定されている事であり、若し太平天国の乱が列強諸国に寛容であり、さらに西洋文明に寛容で在ったなら、清朝はより早い段階でその歴史を閉じていたと思われます。
更にもう一つの側面として,清朝末期に中国全土の人口が、急激に増加し、其の為食糧不足が乱の主因と成りました。
尚、この乱によって,膨大な犠牲者が発生したと云われますが、この様な人口増加と内乱、多数の犠牲者というパターンは,近代以降の中国史で繰り返し見られる傾向です。

続く・・・
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