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2011/04/04

人類の軌跡その55:清朝の黄昏②

<西太后と戊戌の政変1>

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 1875年1月(明治8年)、清朝の同治帝は、20歳の若さで崩御、子供も無く、死亡原因は、天然痘と発表されたものの、様々な風説が飛び交います。
先帝である、咸豊帝が1861年に崩御した際、皇后(東太后)には実子が無く、そこで妃の子供である同治帝が即位したのですが、其の時、同治帝僅かに6歳、東太后と西太后が供に並んで摂政と成りました。

 東太后は、大人しい女性で、政治上の野心も無い一方、西太后は、才気有る女傑で、この様な人物が並び立てば、権力は自ずと、西太后に集まるのは、成り行きです。
しかし、同治帝の皇后は、東太后の推挙した女性で在り、西太后は、同治帝が皇后と仲睦まじくする事を好みませんでした。
やがては、実子たる同治帝さえも、うとんじる様に成りました。

 その様な空気の中、皇帝は崩御、懐妊中の皇后は自害、良からぬ噂が飛び交っても其れは、致し方の無い事です。
皇帝崩御の当日、西太后は、宮中に人を集め、次なる皇帝を決めてしまいます。
その人物が、光緒帝で、西太后の妹の子で、年齢僅かに5歳、再び両太后が摂政する事が同時に定められました。

 其れから6年後、東太后は急死。
この時も毒殺との風説が、宮中に湧き上がったものの、真偽の程は定かではなく、権力は西太后の一身に集まりました。

 光緒13年(1887年)、皇帝も成年に達し、西太后の摂政を止め親政する旨が、公表されます。
しかし、西太后の権力は、衰える処を知らず、光緒帝自身も重要な政務には、その都度、西太后の指示を仰がなければ成りませんでした。
その上、皇后も西太后の姪を押付けられる形になり、青年皇帝の不満は、増える一方でした。
やがて、西太后やその側近に反対する勢力は、自ずと光緒帝の下に集まり、太后派と皇帝派の権力闘争は、次第に表面化して来ます。

 その爆発が、戊戌の政変(1898年)で、光緒帝は少壮の官僚を当用して、諸政策の刷新を断行します。
親政が現実に開始されたのですが、勿論、西太后や旧保守派の側近達の反動は、日増しに激しさを増して行きます。
終に皇帝派は、最後の手段として、軍閥の首領たる袁世凱を味方に引き入れ、西太后派を打倒すると供に、西太后本人を政権の座から、永久に隔離しようと考えました。

続く・・・

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