人類の軌跡その61:現実と神話の狭間⑤
<ミノア文字>

クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に判れ、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。
1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。
マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)
彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。
さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに、終に解読しました。
但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。
ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。
しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。
続く・・・

クレタ文明には、「ミノア文字」呼ぶ文字が、存在し、絵文字と線文字に判れ、更に線文字は、二体(A&B)ある事が、アーサー・エバンズの発掘調査以来判明していましたが、これを解読する事は、容易ではありませんでした。
1936年の事、アーサー・エバンズは、ロンドンで「誰にも読めない文字の話し」と題して、学術講演を行い、この「ミノア文字」を紹介しました。
その時、マイケル・ヴェントリスという当時14歳の少年が、この講演を熱心に聞き、「自分がこの文字を読み解く」と決心したのです。
マイケル少年は、幼い頃から、古い文字に興味を持ち、7歳の時には、お金を貯めて、エジプトの象形文字について書かれたドイツ語の書物を買う事もある程でした。
彼は、英国の比較的裕福な家庭に生まれ、父はインド駐留の陸軍将校、母はポーランド系の才能ある女性でした。
その為か、語学には天才的な素質を持ち、幼い頃から数ヶ国語を自由に話す事が、出来ました。
しかし、学業では言語学を専攻せず、建築学を選び、第二次世界大戦に従軍し、暗号解読を任務としました。
建築学の道に入った、ヴェントリスは、少年時代の決心を忘れた訳ではなく、エバンズの講演を聞いた後も「ミノア文字」の研究を続け、その研究レポートを時々、学者達に送り指導を仰いでいました。(20回以上もレポートを作成した事が判っています)
彼の他にも「ミノア文字」を研究している人々が、勿論居り、ブルガリアのゲオルギエフの他、自分はミノア文字を解読したと称する学者は、多く存在しましたが、正しい解読と認められず、アメリカ・コロンビア大学のアリス・コーバーに至っては、もう少しの努力で、解読できる処迄来ていながら「これはとうてい読み解けない文字である」として、研究を中断してしまう程でした。
さて、1939年、ペロポネソス半島のピュロスから、ミノア線文字Bで書かれた粘土版が多数発掘され、比較材料が増えた事により、研究も進み解読の手掛かりも幾つか判明してきました。
「ミノア線文字B」は、文字数88、此れは表音文字としては多く、表意文字としては少なすぎる事から、日本のカナ文字の様に母音と子音の組合せであろうと推定され、又、語尾変化、接頭語、文節記号も判明してきました。
この難解な文字をヴェントリスは、少年時代に決心して通りに、終に解読しました。
但し、解読出来たのは、「ミノア線文字B」のみでした。
彼は、此れを古代ギリシア語を表現する文字と考え、日本のアイウエオを表す50音表の様な「ミノア線文字B」の「音の格子」と名づけた表を作成し、88文字にも上る線文字Bを格子に当てはめ、1952年、何時もと同様にレポートを作成しました。
ケンブリッジ大学のギリシア語教授 チャドウィックが、ヴェントリスのレポートを読み、彼の解読作業に協力を申し出、この二人の共同研究の結果は、翌年学会に発表され、大論争が起こりましたが、後年、ヴェントリスの解読を証明する、新たな粘土版が発見され、今日、彼の解読は正しいものとして承認されています。
しかし、ヴェントリスは、1956年9月自動車事故の為、僅か34歳の若さで急逝し、ギリシアの人々の間では「神々に愛された者は若死にする」と云う諺が有りますが、彼も神々に愛された為に若死にしたのだと人々を惜しませました。
死に到迄にヴェントリスは、「ミノア線文字B」に関する研究書を著し、後の世の人々が更に研究を進める為の手引きを完成させました。
こうして、「ミノア線文字B」の解読は成功したものの、「ミノア線文字A」「絵文字」の解読は、現在でも成し遂げられていません。
続く・・・
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