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2011/04/16

人類の軌跡その67:忘却⑮

<シベリアの悲劇その2>

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◎尼港事件

 日本の「シベリア出兵」もその一環であり、シベリアに駐留するチェコ軍支援を名目に、アメリカ、フランス、イギリス、中国との共同派兵の形式で行われました。

 日本は、他国との協定を無視し、2個師団73,000人にも及ぶ大軍を派遣しますが、この様な干渉にも関らず、ソビエト軍の勇敢な抵抗に遭遇し、アメリカ、イギリスは短期間で撤収したものの、日本は執拗にシベリア占領の希望を放棄せず、軍隊の増強を図り、極寒の土地で苦しい戦闘を続けました。
巨額の戦費と多数の犠牲者を出し、軍事的にも、政治的にも、外交的にも、経済的にも最大限の失敗を重ねた上、1922年、4年間に及ぶ派兵を中止しました。
その間、1920年1月、「尼港事件」が発生して、石田領事以下、多数の在留邦人の命を失います。

 尼港(ニコライエフスク)は、黒竜江下流の漁業中心地として繁栄し、1918年、日本がシベリア出兵を行った頃は、400人前後の居留民が存在し、領事館も設置されました。
1920年1月下旬、パルチザン部隊の襲撃を受け、日本政府は直ちに、第7師団の混成部隊と海軍軍艦三笠を派遣しましたが、厳冬に阻まれて現地に到着できない間に、領事館は砲撃を受け、石田領事以下邦人350名、守備隊将兵330名、海軍将兵40名、合計720名が非業の死を遂げました。

 当時、日本国民の多くは、尼港事件の悲劇が、我国の無謀なシベリア出兵に起因する事を知らず、世論は怒りに震え、政府を鞭撻しロシア窈窕の気勢を上げたのでした。
この尼港事件は、我国の虐殺遭難史に残る大きな事件である事は間違い在りませんが、この事件と前後して、シベリアの地に、歴史上稀に見る悲劇が展開されていました。
失われた人命125万人、その上5億ドルと伝えられる、巨額の金塊事件迄、発生しています。

続く・・・

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