人類の軌跡その72:大航海時代①
<コロンブスの遺骨その1>

◎コロンブスの上陸した島
イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストヴァル・コロン(以下クリストファー・コロンブス(1456年~1506年))が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。
コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。
コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。
コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。
続く・・・

◎コロンブスの上陸した島
イタリア、ジェノヴァの生まれのクリストヴァル・コロン(以下クリストファー・コロンブス(1456年~1506年))が、スペイン女王イザベル1世の援助を受け。サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻の帆船に、120名の乗組み員を乗せ、故国のバロス港を出帆して、大西洋横断に旅立ったのは1492年8月3日未明の事でした。
途中、部下達がその航海の前途多難による不安から、幾度も反乱の予兆を抑えながら、航海を続け、同年10月12日午前2時、故国を出帆しておよそ70日後、バハマ諸島(西インド諸島)のひとつの島に到達し、この島を「サン・サルバドル島」命名しました。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸発見の第一歩と成りました。
この島は、現在のワットリング島と推定されています。
コロンブスが第一歩を印したバハマ諸島には、30以上の大小の島々が存在し、彼が「サン・サルバドル」と名づけた島が、正確には現在のどの島なのか、特定する事は大変な事でした。
コロンブスの新大陸への航海日誌は、不幸にも、彼の死後間も無く所在が不明と成りますが、彼の生前、同時代の僧侶フレイ・ラス・カオスが、コロンブスの原書である1492年10月12日付けの航海日誌を忠実に複製しました。
これは後に翻訳され、複製刊行されます。
その文献によれば、10月11日の夜、強い東風が吹き、月の光に浮かび上がる島影を最初に発見したのは、ピンタ号の水夫ロドリゴであることが判ります。
コロンブスは「サン・サルバドル島」について、次の様に記録しています。
「島は極めて大きく、かつ扁平であり、島の中央部には大きな湖が存在し、島の形はソラマメの様で、多くの木々が繁茂している」。
更に2日後の10月14日付けの日誌には、「明け方、私は船を1隻用意させ、島を観察するために、島に沿って東北方向に航海をした。住民たちが岸に出て来た。上陸地を探したが、島を取り巻く岩礁が心配であった。しかし、やがて岩礁の切れ間を見つけ、其処は全キリスト教国の船舶を収容するに足りる広大な入り江だった」と記しています。
以上は、サン・サルバドル島に関し、現存するコロンブスの航海日誌(模写)の殆ど全てですが、詳細な記録とは言い難いものです。
続く・・・
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