<太陽の乙女達その2>
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マチュ・ピチュ 古代インカ人は、優れた民族で太陽を神と崇め、偉大な文化を築き上げて発展しました。
9世紀初頭、ヨーロッパ全土が暗黒時代の頃、インカ人はアンデス山脈の東側に居住し、標高3,000m余りの高地に、石造りの都市を建設し、この場所を「マチュ・ピチュ(老いたる峰の町)」と名づけました。
町には400戸程の家々や神殿、宮殿も造営され、神殿の祭壇は100トンを越える、一枚岩で造られています。
石材の組立てには、モルタル等の接着剤を用いず、石と石の隙間が殆ど判らない位、巧みに組み上げられ、1,000年以上を経過した現在も、少しの狂いも生じていません。
これ等の石材を採掘した石切り場は、600m下の峡谷の底に在り、その巨大な石材を階段状のテラスを持つ町の頂上に運び上げたのか、又、鉄製品を知らない彼らが、如何なる方法で石材を切断し、組み上げたのか、近代建築史上大きな疑問なのです。
この地に古くから住んでいる、インティヘナの人々は、古代インカ人は「天使の建築家」が作業を援助し、魔法の技術で峡谷を横切り、巨大な石を断崖の頂上まで運んだと云います。
200年の間、インカ人はマチュ・ピチュに居住しましたが、人口の増加に比例して、食料が不足した為、46km離れたアンデス山脈の西側に位置するクスコ高原に移住します。
スペイン人の記録によれば、12世紀初頭、マンコ・カパックの子シンチ・ロカ(Sinchi Roca)が、その妹ママ・クーラ(Mama Cura)を妻に迎え、当事クスコ渓谷に居住していたケチュア族(Quichua)の統治者と成り、彼もまた両親の様に、もはや神話上の人物では無く、既に歴史上の人物と成っていました。
ロカの孫マイタ・カパック(Mayta Capac、1195年~1230年)の時代と成ると、統治面積は更に広大と成り、更に第9代ハイナ・カパック(Huayna Capac,1438年~1471年)の時代、その領土は北部コロンビアから南はアルゼンチン北部乃至チリに達し、インカ帝国の最盛期を向かえ、人口は1,100万人を数えました。
続く・・・
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