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2011/06/02

人類の軌跡その114:歴史に残る財宝探索③

<ナポレオンの財宝その3>

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◎史実に残る財宝

 ナポレオンがモスクワ撤退にあたって、膨大な数に及ぶ、美術品、宝石、什器、武具等を略奪したのも、史実に明らかなのです。

 飢えと寒さによって疲弊した軍隊、激しい追撃を行うロシア軍、900kmを越す長い道程、この状況で多量の“財宝”を加える事は到底無理な話で、ナポレオン軍は、略奪した是等を、廃棄若しくは、隠蔽するしかないのでした。
恐らく、敗走時には、フランス士官によって管理運搬されたのでしょうが、やがて“荷物”となり部下の将兵に預けられ、更には“厄介物”としてプロイセン、オーストリア、オランダ、バイエルン、ポーランド等の外国人傭兵にリレーされ、最後は命に替え難いとされ、遺棄乃至隠匿されたと推察する説が大部分なのです。

◎歴代ロシア皇帝による探索

 この様な経過から、ロシアの地の何処かに“財宝”は隠匿される事と成りましたが、この事実が現実のものとして明るみに出たのは、第二次世界大戦終結後、当時のソビエト政府が旧帝政ロシア外務省の未発表資料を公開した時の事でした。

例1
 1815年10月21日付、元プロイセン首相エンゲルハルトより、同国国王宛書簡
1812年3月、エンゲルハルト私邸にロシアから生還したフランス人将校2名が止宿した。その2名の目撃談として、「コブノ市(現:リトアニア共和国カプナス市)郊外の教会付近で、土木作業中のフランス砲兵を見かけた。彼らは財宝を詰めた木箱を地中に埋め隠したが、80万フランに相当する金額であると言っていた」。
同書簡はプロシア国王から、ベルリン駐在ロシア大使を通じて、当時のロシア皇帝に渡されているものの、発掘作業が実際に行われたか否かについては、記録されていません。

例2
 1823年10月付、近衛兵本部副官フリデリクスより、本部宛書簡
「ナポレオン軍に徴兵され、捕虜と成ったドイツ人傭兵の告白により、大ダル4個に分納された財宝の隠匿先が判明した為、その証言に基づき旧ミンスク・ボリゾフ市近郊のベレジナ川流域探索を行った」。
この書簡も結果については、不明ですが、皇帝の特令によって、発見の暁には、その半額が下賜される旨、明記されています。

 この後、侍従武官長ペンケンドルフの指揮の基行われた大捜索(1839年~1840年)迄、歴代皇帝は、度々“ナポレオンの財宝”捜索を実施し、又は半額下賜の夢を追って、ロシアへの入国申請を行う者も多数に上りました。

続く・・・

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