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2019/04/09

歴史を歩く207

43ファシズムの台頭⑤

5ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その2)

ナチス⇒国家社会主義ドイツ労働者党
通称の「ナチ」「ナチス」は、当時の対抗勢力がナチ党員及び国家社会主義者に付けた蔑称で、ドイツ社会民主党員及び社会主義者も同様に ソシアリスト を短縮して「ゾチ」と蔑称されていました。
従って、映画等のセリフでナチ党員自身が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分達をナチ及びナチスと呼ぶ事は在りませんでした。
党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP」「NS」或いは「Partei」と呼び、党員同士は「PG 」(党同志の略)「カメラート」と呼んでいました。
しかし、ナチスと云う呼称は各国に広まっており、日本でもナチ及びナチスの呼称が当時から使用されていました。
ここでは、ナチスの呼称を使用します。

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 ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933年~45年)と呼ばれています。
第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国を意味しています。

 ナチスは全体主義の思想の下で民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権を認めず、国民生活全体を厳しく統制しました。
特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA)・親衛隊(SS)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底した弾圧を行いました。

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突撃隊SA

 突撃隊(SA)は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、当初ナチス集会の警護を任務としていましたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とし、1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立する迄になっていました。
国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部であるレーム等を粛清した結果、以後親衛隊が勢力を増して行きます。

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親衛隊(SS)

 親衛隊(SS)はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設され、1934年に突撃隊から独立し、最新の兵器を装備し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担う様になりました。

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ベルリン、プリンツ・アルブレヒト通り8番地のゲシュタポ本部外観。1933年

 ゲシュタポ(ゲハイメ・シュターツポリツァイ、秘密国家警察を意味するドイツ語の略語)は、1933~34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチス恐怖政治の中核となったのです。

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ユダヤ人経営商店への妨害

 ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論を下に、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で、根絶されるべき存在であるとする極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害していきます。
1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止(ニュルンベルク法)しました。

 そうした中で、1938年にはユダヤ人商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人根絶政策が決定され、政治犯、ユダヤ人を収容して強制労働に従事させ、或いは大量虐殺を行う為に強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われたのでした。

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アウシュビッツ強制収容所

 有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、この施設だけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたと云われています。
第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人と推定される)のユダヤ人が虐殺されたとされています。

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アウトバーン1930年代の撮影

 1932年を底辺として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かい、アウトバーン(高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場建設等の大規模な土木事業に着手して失業者を吸収した結果、失業者は1933年初頭の約600万人から1935年初頭には約300万人に減少していました。

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フォルクスワーゲン計画:KdF-Wagen

 1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画でしたが、この政策によって失業者数は1939年初頭には約30万人に迄激減しています。
国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだします。

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国際連盟本部(スイス・ローザンヌ)

 1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932年~34年)と国際連盟からの脱退を宣言し(1933年3月には日本が既に脱退)、1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たします。

熱狂的支持
ナチス政策に支持を表明するドイツ国民

 ザール地方は石炭等の資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯ですが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下に置かれ(炭田採掘権はフランスに譲渡)、その帰属は15年後の住民投票で決定することになっていましたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰します。

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徴兵制復活

 1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活、軍隊を50万人に増強する再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパの国々を震撼させました。
再軍備宣言では空軍の設立も宣言されています。

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再軍備宣言・初期の新生ドイツ空軍主力戦闘機 ハインケルHe51B

 この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与え、イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難すると共に、ドイツの脅威に対して共同行動をとる事を約束し(ストレーザ戦線)共同歩調を取ります。

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再軍備宣言・初期のドイツ陸軍主力・1号戦車(Panzerkampfwagen I)誘導輪の位置からA形と推定

 ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスでした。
フランスはナチス・ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を締結(1935年5月)、ソ連もチェコとソ連・チェコ相互援助条約を締結(1935年5月)しました。

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ドイツ海軍・重巡洋艦アドミラル・ヒッパー (Admiral Hipper)

 しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めた結果、ストレーザ戦線は崩壊し、英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自等がヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するもので在り、ここにヴェルサイユ条約は事実上崩壊します。

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ムッソリーニ政権下で行われたエチオピア侵攻

 更にヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935年10月~36年5月)で騒然としている最中、ラインラント進駐を強行します。
 1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925年、ラインラントの非武装と相互不侵略を明記した条約)を破棄してラインラントに進駐しますが、当時のドイツ軍は未だ十分な装備が整っておらず、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。若し当時フランスが兵を進めておれば、我々は尻尾を巻いて退却せざるを得なかったであろう。我々が利用できる軍事力は控えめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っています。

Die 48 Stunden nach meiner Ankunft in Rheinland war die nervöseste Zeit in meinem Leben. Wenn Frankreich damals Truppen vorrückte, wären wir gezwungen gewesen, unseren Schwanz zurückzuziehen. Die militärische Macht, die wir einsetzen konnten, war für einen bescheidenen Widerstand völlig unzureichend.(上記ドイツ語原文)

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進駐軍に花を贈る住民・当時のドイツ軍機械化部隊は少数だった

 フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させますが、イギリスの同調が得られなかったために反撃を機会を失い、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来ませんでした。
ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は完全に崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていったのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年4月17日 北九州市小倉南区若宮神社境内
2019/03/02

歴史を歩く206

43ファシズムの台頭④

4ナチス・ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その1)


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国家社会主義ドイツ労働者党: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 略称: NSDAP)

 1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは、世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥りました。
こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣の成立を見ます。

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アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)

 アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)はオーストリア、ブラウナウで下級税関官吏の家庭に生まれ、実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験しますが不合格(1907年)、翌年もその志は達成されず、やむを得ずヒトラーはウィーンの街頭で、自分の書いた絵を売り、又日雇い労働者をしながら食べる物にも事欠くような困窮の生活を送っていました。
その後、一時ミュンヘンにも移り住みますが(1913年)、1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、即座にバイエルン連隊に志願兵として入隊しました。

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第一次世界大戦従軍時代のヒトラー(右)と戦友

 フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、戦地では危険な伝令兵として活躍、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、退院後はバイエルンの連隊に戻ります。
軍の政治工作員となったヒトラーは、ドイツ労働者党と云う小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党しました(1919年9月)。
その巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角を現し、間も無く党の指導者となりました(1921年7月)。

 この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(映画等で使用されるナチスは政敵からの呼称で正式名称では無く党員自身が使用する事は無かった)に改称されました。

「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りでした(抜粋)。

 1 我々は、諸国民の民族自決権の原則に則り、大ドイツ国を樹立する為、全ドイツ人が統合する事を要求する。

 2 我々は、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約及びサン・ジェルマン平和条約の破棄を要求する。

 3 我々は、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめる為に、土地及び領土(植民地)を要求する。

 4 ドイツ民族同胞たる者のみが、ドイツ国公民たり得る。
ドイツ人の血統を持つ者のみが宗派の如何を問わず、ドイツ民族同胞たり得る。
従って全てのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。

 8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。
我々は、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめる事を要求する。

 22 我々は、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。

 25 以上全ての要求を貫徹する為、我々は、ドイツ国に強力な中央権力を創設する事を要求する。(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 この様に大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害等後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられており、又11~17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革等の社会主義的な政策も掲げられていますが、これらは党勢拡大の為の装飾で在り、その後ヒトラーによって無視されたのは周知の事実です。

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ミュンヘン一揆で市内を占拠するナチス党員

 ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆でした。
1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なハイパーインフレーションが起こり、政治不安が激化すると、同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざして起こしたクーデターがミュンヘン一揆です。

 しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪を宣告され、9ヶ月間投獄されますが、この間、獄中での口述筆記が有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなりました。

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ハイパーインフレーション(紙幣が紙くず同然に)

 出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざしますが、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていた為、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したに過ぎませんでした。
1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕し、企業の倒産が相次ぎ、工業生産は急落(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えました。

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ヒンデンブルクとヒトラーの選挙広告(1932年3月)

 こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心を捉え、ナチスはその巧みな宣伝・扇動によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に躍進、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に成長しましたが、その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54から77へと議席数を増加させています。

 共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行い、更に軍部もナチスを支持した為、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党と成り、ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶します(1932年8月)。

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ヒトラー内閣成立を祝って松明行進を行う突撃隊。1933年1月30日

 1932年11月の選挙でもナチスは第1党では在りますが196と議席を減らし、一方共産党は100議席(1932年7月選挙では89議席)と議席を更に増やし、この共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーは益々ナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだ結果、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立したのです。

 しかし、この時ヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達しておらず、ヒトラーは直ちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得しますが、この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行っています。

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国会議事堂放火事件

 特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧が激しさを増して行きました。
この事件については現在でも不明な点も多いのですが、ゲーリング等ナチス首脳が計画した放火説が有力である事は間違い無いと思われます。

 ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由等の基本権を停止し、又共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕しました。
こうして3月5日の選挙では288議席を獲得しますが、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しておらず、共産党議員81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させました。
全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認無しに政府の立法権を認める内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立されたのです。

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パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク
(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)

 独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933年5月)、同年7月迄にはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立しました。
ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を掌握し、名実共に独裁者となったのです。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年3月10日 北九州市小倉南区城野自宅
2019/02/22

歴史を歩く205

43ファシズムの台頭③

3ファシスト・イタリアの成立とその政策

ムッソリーニ演説
演壇のムッソリーニ

 第一次世界大戦後、後進資本主義国を中心にファシズムと呼ばれる政治形態が出現しました。
ファシズムと云う単語は当初、イタリアのファシスト党の政治体制を指していたのですが、その後類似した政治体制に対しても広く使われるようになりまた。

 ファシズムとは、第一次世界大戦後の資本主義体制が危機に陥った時に出現した、議会制民主主義を否定する独裁的な政治形態です。
ファシズム体制の基では、国家又は民族の発展を最高の目的とし、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)によって個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先されました。

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クロアチア・リエカ市街(現在)・旧フィウメ市

 ファシズムの典型はナチス・ドイツですが、ファシズムが最初に成立したのはイタリアでした。
イタリアは第一次世界大戦の戦勝国ですが、パリ講和会議では「回復されざるイタリア」の獲得が認められただけでフィウメ市の併合等は拒否され、ヴェルサイユ体制に不満を持っていました。
その為、1919年9月には詩人・小説家で愛国者であったダヌンツィオ(1863年~1938年)が復員軍人等の義勇兵を率いてフィウメ市を占領する出来事が起こります(1920年12月撤退)。

 本来資源が乏しく、経済基盤が弱かったイタリアは戦費のほとんどを外債で調達した為、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥り、又産業も不振に陥り、失業者が増大、食料その他の生活必需品が不足して激しいインフレーションにみまわれました。

 その為1919年から20年にかけて都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否する等社会不安が増大し、1919年11月に行われた総選挙では社会党が第1党となります。

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ファシスト党党旗

 1920年になると労働者のストライキが激化し、9月には北イタリアの労働者が社会党左派(1921年に共産党を結成)の指導の下で工場を占拠し、農民も各地で地主の土地を占拠したので、革命前夜を思わせる状況になりますが、労働者は賃上げその他の条件で政府の妥協案を受け入れて工場占拠を解いた為、以後労働運動は衰退に向かいますが、この出来事をきっかけとして勢力を拡大したのがムッソリーニの率いるファシスト党でした。

 ムッソリーニ(1883年~1945年)は北イタリアで鍛冶屋の子として生まれ、サンジカリズム運動に参加した父親の影響を強く受けました。
師範学校を卒業後、スイス各地を転々とする間に社会主義者と接触し、帰国後イタリア社会党に入党(1908頃)、彼は巧みな弁舌で知られ、社会党の機関誌「アヴァンティ(前進)」の編集長と成りますが(1912年)、第一次世界大戦が勃発すると参戦を主張して党から除名され(1914年)、以後反社会主義運動に傾倒していきます。

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ファシスト党の前身であるイタリア戦闘者ファッシ

 ムッソリーニは、1919年3月、ミラノで「戦闘者ファッシ」を結成し、同年11月の総選挙に立候補しますが、4千数百票を獲得しただけで落選しています。
ファッショとは古代ローマの官吏がたずさえた一束の棒で団結・結束を意味し、ファシズムの語源となりました。
しかし、戦闘者ファッシは、1920年の北イタリアのストライキで労働者による工場占拠が行われると、社会党員や労働者を暴力で攻撃し、労働運動を暴力で鎮圧しました。

 戦闘者ファッショは共産主義の進出を恐れる資本家・地主・軍部等の支持を受けて勢力を拡大し、1921年5月の総選挙では31名を当選させ、同年11月に戦闘者ファッシはファシスト党(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組されました。
この頃には党員数も約30万人に達していたファシスト党は戦闘団(黒シャツ隊と呼ばれた)の軍隊化を進め、暴力的な性格をますます強めて行きます。

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ローマ進軍(左からムッソリーニ、デ・ヴェッキ、ビアンキ)

 1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは政権奪取を宣言し、28日には黒シャツ隊がローマに向かって進撃を開始(ローマ進軍)、ファクタ首相は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(在位1900年~46年)に戒厳令の発布を求めたが、国王はこれを拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じます。
黒シャツ隊はローマを占領し、ムッソリーニもミラノからローマに到着し、同月末にムッソリーニ政権(ファシスト政権)が成立しました。

 政権を握ったムッソリーニは、ファシスト大評議会を設立し(1923年)、翌1924年の総選挙でファシスト党は暴力を使った選挙運動によって総投票数の65%・375議席を獲得して議会の絶対多数を握り、1926年11月にはファシスト党以外の全政党を解散させ、ファシスト党一党独裁制を確立しました。
更に1928年12月にはファシスト党の最高機関であったファシスト大評議会が正式に国家の最高機関となり、ファシズム体制が完成します。

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ピウス11世(Pius PP. XI、1857年5月31日-1939年2月10日)

 この間、ムッソリーニはローマ帝国の再現を唱えて対外拡張政策を進め、1924年1月にはユーゴとの直接交渉によってフィウメを併合します。
フィウメはダヌンツィオの義勇兵が一時占領した経緯があり、ラパロ条約(1920年11月)によって独立市とされますが、ムッソリーニによって再度併合され、次いで1926年にはアルバニアを事実上の保護国とします。
更に1929年2月には、カトリック教徒がほとんどを占める国民の支持を得るためにローマ教皇庁(教皇ピウス11世)とラテラン条約(ラテラノ条約、ラテラン協定)を結び、ローマ教皇庁とイタリア王国とは、1870年にイタリア王国がローマ教皇庁を併合して以来、ローマ教皇は「ヴァチカンの囚人」と称し、両者は国交断絶状態にあったのですが、ムッソリーニはラテラン条約を結んでローマ教皇と和解し、ヴァチカン市国の独立とカトリックがイタリア唯一の宗教であることを認め、ローマ教皇はムッソリーニ政権を承認しました。

 ヴァチカン市国はローマ市の一角にある教皇庁の所在地域で、面積0.44平方km・人口1277人(1994年)の世界最小の独立国家です。

 ムッソリーニがイタリア国内でファシズム体制を完成させてまもなく、世界恐慌の影響がイタリアにも及びますが、ムッソリーニは統制経済を強め、失業者の救済を兼ねた大土木事業を起こして工業の発展を図ると共に食糧の増産にも努めました。

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野砲を運用するイタリア陸軍砲兵

 しかし、その一方で資源に乏しいイタリア国内の経済危機を打開する為、又経済危機から国民の目をそらせる為に1935年10月にはエチオピア侵入を開始し、イタリア軍が侵入を開始してから4日後に国際連盟理事会はイタリアを侵略国とみなし、8日後に国際連盟総会はイタリアへの経済制裁を決議しますが、この経済制裁は肝心の石油が禁輸リストから外される等不徹底で効果は在りませんでした。

 エチオピア軍は勇敢に抵抗しますが、近代兵器で武装したイタリア軍は破竹の進撃を続け、イタリアは1936年5月にエチオピアを併合し、このイタリアによるエチオピア侵入は国際連盟の権威を失墜させると共に、ファシスト・イタリアとナチス・ドイツを接近させ、1936年10月にベルリン・ローマ枢軸が成立しました。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年2月27日 北九州市小倉南区若園(若宮神社境内)

2019/02/11

歴史を歩く204

43ファシズムの台頭②

2イギリスとフランスの恐慌対策


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ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald、1866年10月12日 - 1937年11月9日)Wikipediaより

 イギリスでは、1929年5月の総選挙で労働党が保守党を破り、初めて第1党となり、第2次マクドナルド労働党内閣(1929年6月~31年8月)が成立しますが、まもなくアメリカで大恐慌が起こり、アメリカ資本が引き上げられるとイギリスも世界恐慌に巻き込まれていきます。

 イギリスは不況に陥り、綿工業・造船・製鉄・石炭等の主要産業の生産が激減し、商業・貿易も急速に衰え、失業者は急増し、1929年6月には116万人を数えますが、翌年4月には176万人、そして1931年6月には270万人に達しました。
このため失業保険の給付が激増し、財政が更に悪化していきます。

 マクドナルドは失業保険の大幅削減等による緊縮財政を立案しますが、これに対して労働党は公約に掲げる社会保障制度の充実に反するとして強く反対し、マクドナルド労働党内閣は総辞職しました(1931年8月)。

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ジョージ5世(George V, George Frederick Ernest Albert, 1865年6月3日 – 1936年1月20日)Wikipediaより

 マクドナルドはその直後、時の国王ジョージ5世の大命を受け、保守党及び自由党の協力を得て挙国一致内閣(1931年8月~35年6月)を組閣しますが、この結果マクドナルドは裏切者とされ、労働党を除名されます。その後、10月に行われた総選挙では政府与党が圧勝し、党首を除名した労働党は215議席を失って52議席と大敗を喫しました。

 マクドナルド挙国一致内閣は失業保険の削減を含む緊縮予算を成立させ、金本位制の停止(1931年9月)や保護関税法の制定(1932年1月)を行うと共に、1932年7月から8月にかけてカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議、オタワ会議)を開き、オタワ協定を結んでブロック経済政策を採用します。

 イギリスはオタワ会議に先立って、1926年のイギリス帝国会議の決議を成文化したウエストミンスター憲章を制定し(1931年12月)、各自治領にはイギリス連邦の一員としてイギリス国王に忠誠を誓う事を条件に、本国と対等の地位を与えることを定めました。

 オタワ会議には、イギリス本国・カナダ・オーストラリア・ニュージランド・南アフリカ連邦・アイルランド・インド・南ローデシアの代表が集まり、本国と自治領及びインドは特恵関税制度を中心とする相互通商協定を締結します。
このオタワ協定はイギリス帝国全体から外国商品を排除する事を目的とし、外国商品に対しては高関税を課し、イギリス帝国内の商品に対しては無税又は低関税を課す事としました。

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 これによって排他的な経済ブロックが形成され、イギリスは従来の自由貿易主義を放棄してブロック経済政策の道を進む事になりますが、イギリスの経済ブロックはスターリング・ブロック(ポンド・ブロック)と呼ばれています。

 イギリスがブロック経済政策の梶を採った為、国際経済をますます狭める事となり、世界経済の自給自足化と国際経済競争を激化させ、以後「持てる国と持たざる国」との対立が強まる原因となっていきました。
ブロック経済政策によってイギリス経済は徐々に回復に向かい、失業者も減少し、工業生産指数は1929年を100とした場合、1932年は85であったが、1934年には104に向上しました。

 マクドナルドの引退後、保守党を中心とするボールドウィン挙国内閣(1935年6月~37年5月)、ネヴィル・チェンバレン保守党内閣(1937年5月~40年5月)が成立します。

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レオン・ブルム(Léon Blum、1872年4月9日 - 1950年3月30日)Wikipediaより

 フランスでは、世界恐慌の影響が比較的遅く、1931年頃に影響が現れはじめ、1932年になって深刻化しました。
この為状況に対応できなかった右派連立政府に対する不満が高まり、1932年5月の総選挙では左派が勝利し、急進社会党(中産階級を基盤とする進歩的共和派政党)や社会党(社会主義諸派の連合政党)等が議席を増やします。

 その結果、急進社会党のエリオ内閣が成立しますが、左派陣営の分裂や赤字財政に苦しめられて6ヶ月で倒れ、以後14ヶ月の間に5つの内閣が交代する政治的混乱が続きます。

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ナチス政権の台頭
 
この間、ドイツでナチス政権が成立(1933年1月)すると、フランス国内でも1934年に極右ファシスト団体や右翼勢力のデモ・暴動が起こり、又それに反対する労働者のデモも起こって混乱が続き、
こうした状況の中で社会党と共産党は反ファシズムの共同戦線を協約し(1934年)、翌1935年6月、これに急進社会党が加わって人民戦線(ファシズムと戦争に反対する全勢力と組織を結集した反ファシズム人民統一戦線)が結成さます。

 これより前の1935年5月、フランスはドイツの再軍備宣言(1935年3月)に脅威を感じ、ソ連との間に仏ソ相互援助条約を結んでナチス・ドイツの進出に対抗しますが、左右両勢力の激しい対立が続く中で行われた1936年5月の総選挙では、人民戦線派が国民の支持を得て大勝し、社会党のレオン・ブルム(1872年~1950年、在任1936年~37年)を首相とする人民戦線内閣(社会党と急進社会党の連立内閣、共産党は閣外協力)が成立しました。

 ブルム内閣は、週40時間労働制・団体交渉権の承認・フランス銀行の改革・軍需工場の一部国有化・失業者救済の公共土木事業などフランス版ニューディール政策と呼ばれる諸政策を実施しますが経済危機を克服できず、約1年の在任で退陣しています(1937年6月)。
フランス経済が回復に向かったのは1938~39年のことであり、それは軍事費の増大と軍事工業の拡張によるものが中心でした。

続く・・・

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ジロくんの思い出:平成29年2月17日 北九州市小倉南区葛原(南っ子通り)
2019/01/21

歴史を歩く203

43ファシズムの台頭①

1世界経済恐慌とアメリカのニューディール

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1929年の大暴落の後でウォール街に集まる群衆・Wikipediaより

 1929年10月24日(暗黒の木曜日)に起こった、ニューヨーク株式取引所(ウォール街)での株価の大暴落をきっかけとしてアメリカで大恐慌が始まりました。
この恐慌は、第一次世界大戦後アメリカ資本に依存していたヨーロッパ諸国に大きな影響を及ぼし、まもなく恐慌はソ連を除く全世界に広まり、この世界史上例を見ない程の大規模で深刻な恐慌は世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と呼ばれています。

 世界恐慌がアメリカから起こった原因としては以下の事例があります。

1.自動車・化学・電気等の新しい産業の発展・産業の合理化による工業生産力の増大・それに伴う過剰な設備投資等によって工業製品が生産過剰に陥っていた事。
2.高関税政策の影響で国際貿易が伸び悩んでいた事。
3、農業部門でも、戦争中からの増産によって農産物の供給が急増していたところへ、戦後ヨーロッパの復興によってヨーロッパの需要が減少し、農産物価格が急落して農業不況が深刻化していた事。
4、農業不況によって農民の購買力が低下し、又生産性の伸びに比べて労働者の賃金が低く抑えられ為国民の購買力が低下した事。

 要約すれば、生産過剰と国民の購買力の低下によって需要と供給のバランスが大きく崩れた事が原因でした。
そして、戦後世界の資本がアメリカに集中し、それが土地や株式の投機に回され、過剰な投機ブームが起こっていた事が、株価大暴落の直接の原因となりました。

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ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover, 1874年8月10日 - 1964年10月20日)・Wikipediaより

 1929年3月に就任した第31代大統領フーヴァー(在任1929年~33年)は「私は我国の将来に何らの不安を抱いていない。未来は希望に輝いている」と演説しましたが、この頃既に石炭・造船・鉄道・住宅建設等の業種は不況に苦しんでおり、農業の不況は深刻化し、農産物価格の下落は続いていたのです。
にもかかわらず、株式市場では1929年9月迄株価は上昇を続け、1929年9月の平均株価は、8年前に比べて4.5倍、3年前に比べても2倍になっていました。

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恐慌発生時の株価平均の推移、1928年-1930年

 その後、乱高下をくり返していた株価が、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に突然大暴落します。28・29日にも大暴落は続き、株価は1ヶ月で40%も暴落し、株価の下落は以後3年間続いきました。
株式恐慌は国民経済の全ての分野に大打撃を与え、生産は減退し、企業や銀行の倒産が相次ぎ、失業者は増大します。
1932年迄の3年間に約5000の銀行が倒産し、国民所得は51%・工業生産は46%・企業売上げは50%・全農産物の価格は45%・輸出は36%それぞれ下落しました。

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食事配給に並ぶ失業者の列

 恐慌が始まるとアメリカはヨーロッパから資本を引き上げた結果、戦後アメリカ経済に頼っていたヨーロッパ諸国は大打撃を受け、特に莫大な賠償金の支払いに苦しみながらもアメリカ資本によって立ち直りかけていたドイツ経済は再び破綻し、その結果賠償金を受け取れなくなったイギリス・フランス等も恐慌に見まわれ、恐慌はソ連を除く全世界に広がって世界恐慌(世界経済恐慌、大恐慌)と成ったのです。

 アメリカ大統領のフーヴァーは、1931年6月にドイツの賠償金や連合国の戦債の支払いを1年間停止するフーヴァー・モラトリアムを提唱しましたが実効は上がらず、更にフーヴァーは個人主義・民間のイニシアティブに固執し、公共事業・福祉事業・失業保険等を連邦政府の国債発行によって賄うことを拒否した為に、彼の恐慌対策は効果を上げることが出来ず、恐慌を乗り切ることは出来ませんでした。

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882年1月30日 - 1945年4月12日)・Wikipediaより

 その為「フーヴァーで無ければ誰でも良い」と揶揄される様になり、1932年の大統領選挙では民主党のフランクリン・ルーズヴェルトに政権を譲る事になります。
フランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945、在任1933年~45年)はニューヨークに生まれ、ハーヴァード大学で学んだ後に弁護士となり、1910年に政界入し、ニューヨーク州上院議員・海軍次官・民主党大統領候補(1920年、落選)を経て、1929年にニューヨーク州知事となり、革新的な政策で知られ、世界恐慌最中の大統領選挙で現職のフーヴァーを破って第32代大統領に就任しました(1933年3月)。

 フランクリン・ルーズヴェルトは就任直後に特別議会を召集し、ニューディール政策と呼ばれる恐慌克服策の根幹となる法律を次々に制定して行きました。
ニューディールとは「新規まきかえし」の意味で、ニューディール政策の基本政策はRelief(救済)・Recovery(回復)・Reform(改革)の頭文字を取って3R政策と呼ばれます。

 ニューディール政策は今迄の自由放任に代えて、国家が経済に積極的に介入し、統制を行って景気と国民生活の立て直しを図ろうとする政策で、完全雇用実現の為には政府による有効需要の創出が重要であると主張した修正資本主義の代表的な理論家であるイギリスの経済学者ケインズ(1883年~1946年)の理論を初めて実施した政策でした。

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テネシー川流域開発公社のエンブレム

 ニューディール政策の根幹となった法律は、農業調整法(AAA、1935年5月)・全国産業復興法(NIRA、1933年6月)・テネシー川流域開発公社(TVA)の設立(1933年5月)等です。

1. 農業調整法(Agricultural Adjustment Actの頭文字をとってAAAと呼ばれる)は小麦・とうもろこし・綿花等の主要作物の作付面積や販売用生産を削減する一方で過剰農産物を政府が買い上げる等農産物価格を安定させ、農民の救済とその購買力の回復を目ざした法律です。

2.全国産業復興法(National Industrial Recovery Actの頭文字をとってNIRA、通称ニラと呼ばれる)は企業に独占禁止法の適用を停止して公正競争の規約を結ばせ、生産を規制すると共に企業の適正な利潤を確保させ、他方で労働者の団結権・団体交渉権を認めて適正な賃金の確保を図らせ、生産力と購買力を回復させる事を目的とした法律ですが、NIRAは1935年に最高裁判所によって違憲判決を受けた結果、その中の労働者の権利に関する部分をワグナー法として制定しました(1935年7月)。

3.テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authoityの頭文字をとってTVAと呼ばれる)は電力開発・治水・土地保全・植林・農工業の振興等を目的とする地域総合開発計画であり、政府が巨大なダム建設等の公共事業を行い、この事業に多くの失業者を吸収し、賃金を支払う事で購買力を増やすことを目的としました。

 1935年に制定されたワグナー法によって労働者の団結権と団体交渉権が認められたことから労働組合運動も発展し、同年産業別組織会議(CIO)が結成されました。
CIOは熟練労働者を中心とするAFL(アメリカ労働総同盟)に対抗して、未熟練労働者を中心に組織され、1938年にAFLから分離・独立しました。

 1935年には社会保険法も成立し、失業保険制度や老齢年金制度等が定められます。

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ヒトラーとムッソリーニ

 世界恐慌が長引く中で恐慌克服策の一環として外交政策を改め、従来の孤立主義・膨張主義から善隣友好政策に転換、1933年にはソ連を承認して、列強の中でアメリカだけは長い間ソ連を承認しなかったのですが、ファシズム諸国の台頭に対抗する為、そしてソ連市場への輸出の拡大を図る為に追認承認に踏み切ったのでした。

 又ラテン・アメリカ諸国に対しても、従来のカリブ海政策を改めて善隣外交(善隣友好政策)に転じ、ラテン・アメリカ諸国との友好に努めますが、その背景にもラテン・アメリカ諸国への輸出を拡大したいという意図が存在しました。
1933年に開かれたパン・アメリカ会議で、アメリカは善隣友好の方針を表明し、キューバに対してはプラット条項を廃止して完全独立を承認しました(1934年5月)。

 フィリピンに対しても、1934年に独立法案を成立させ、翌1935年に自治を認め、10年後の完全独立を約束しました。
こうしたニューディール政策の実施や外交政策の転換等によって、アメリカの経済・社会は1935年頃にはようやく安定をとり戻したのです。

 フランクリン・ルーズヴェルトは1936年の大統領選挙では労働者等の支持を得て圧倒的な勝利をおさめて再選されます(1940年3選、1944年4選)。
尚、現在のアメリカでは大統領の3選は憲法で禁止されているので(1951年憲法修正第22号)、フランクリン・ルーズヴェルトはアメリカ史上唯一人の4選された大統領となったのです。

名言集

幸せとは、達成感の中にある喜びであり、創造的な努力に対する興奮である。

Happiness lies in the joy of achievement and the thrill of creative effort.

フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)


今日1月21日で、ジロくんが旅立って100ヶ日になります。

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平成29年4月13日・若宮神社境内にて

ジロくん、貴方とは、何時までも一緒だよ。

続く・・・