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2018/08/26

さようなら、城野町

ジロくんの散歩道

粕屋郡古賀町(現古賀市)から北九州市に両親共々引っ越して約50年。
そんな私の50年間を見守ってくれた、小倉南区城野町を8月6日に後にしました。
歴代ジロくんと毎日歩いた、城野、春ケ丘、若園、重住を記憶に留めたいと思います。
転居当日の早朝撮影なので、少々写真が暗い事をお詫びします。

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写真①

自宅前の光景、前方に見える山は足立山、緩やかな坂道が続きます。
この緩やか坂道は、雪が降ると自動車は勿論、人間でも歩くことが大変な道に成ります。
足立山は、母校の校歌にも「朝日射す足立の山に、若人の歌はこだまし」と歌われた山。
写真の道は、遥か昔、竹林の中の小さな道だったそうです。

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写真②

通学、通勤の時、何時も見守ったくれた道祖神金剛様、子供時代は隠れんぼの場所、ジロくんの散歩の時は、毎日手を合わせた場所です。

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写真③

歴代ジロくんが、戸外に出て最初の散歩に訪れた、上城野公園です。
この公園で、匂いを嗅ぎ、マーキングをし、自動車や飛行機等、音に慣れさせる事を中心に訓練しました。
小学生時代は、朝のラジオ体操の会場、昔は子供達がいっぱいで、陣取り合戦が繰り広げれましたが、今はそれも思い出です。
昔は、鉄棒、ブランコ、メリーゴーランド、ジャングルジムも在りました。

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写真④

氏神様への道です。
昔から若宮様への参道として整備されていた道で、今でもその途中には、御影石の灯篭も残っていて、秋には、毎年お祭りが行われています。
写真の左側は、平成の中半迄は、船橋池と云う大きな池があり、季節になると蛍が沢山居て、淡い光を放っていました。
でも用心しないと、大きな蛇も結構いましたね。
氏神様に向かう道も当時は、現在の半分位で、普通車の離合がやっとの道幅でした。

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写真⑤

氏神様の若宮神社の鳥居です。
今は、お社の前に公民館ができましたが、平成の始め頃迄は、もっと木が多く、鎮守の森に中にひっそりと社が在る風情でした。
太平洋戦争時代、周囲は全て田畑で、遥か遠くからでも若宮様の鎮守の森が見えたそうです。
昭和40年代初期でもその様な風情が残っていました。

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写真⑥

今は公民館の後ろになってしましたが、若宮様の御神体を祀るお社です。
毎日、手を合わせる方が、多い氏神様です。

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写真⑦

重住公園。
ジロくんの散歩コースでは、寒い時期の長距離コースの中間地点になります。
ここも、私の中学生時代は、子供達でいっぱいの公園でした。
午前中はゲートボール、午後はサッカーと世代交代しています。

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写真⑧

重住公園敬老会の花壇に植えられた、パイナップルの花です。
撮影から3週間程経っていますので、実の部分が大きくなっている事でしょう。
この公園は、有志の皆さんが日頃から整備されているので、大変綺麗な公園です。

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写真⑨

ジロくんの散歩コースでは一番遠い処で、このまま進むと小倉南区から小倉北区に変わります。
写真では、見難いですが前方の築堤は、JR日豊本線と日田彦山線の分岐部分に成ります。
後ろの山は足立山を含む企救山地です。
この付近で、雨等になると雨宿りできるのは、若宮神社に戻るしか手段が在りません。
特に梅雨や、夕立の多い頃は、歴代ジロくんと神社迄、ダッシュした事も何度かありました。
最近は、特に雨宿りできる様な建物は、全く在りません。

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写真⑩

JR日豊本線城野駅を下り方下曽根側踏切より望む。
子供の頃、この場所には踏切警手さんが居て、手動で遮断機を操作していました。
その間近で、行き交う列車を眺めていました。
別府・大分行きの485系特急「にちりん」、475系急行「ゆのか」、宮崎行き急行「日南」、南宮崎行き20系に始まり24系25型フル編成の寝台特急「富士」等往年の優等列車が爆進した日豊本線。
鉄路を走る車両は変わりましたが、今も別府、大分方面を結ぶ動脈です。
国鉄時代、キハ66系気動車急行「日田」、遠く本州より直通のキハ58系急行「あきよし」等の優等列車は無くなりましたが、北九州と日田方面を結ぶ日田彦山線。
こちらは、のどかなローカル線になり、2両編成のキハ47系が頑張っています。

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写真⑪

散歩途中で何時も出会った猫一家。
何時もジロくんを見ると、一目散にダッシュで物陰に隠れていましたが、最近はやっと慣れてくれた様です。
でも今日でお別れ。
みんな元気でね。

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写真⑫

散歩道最後の道祖神様、庚申様です。
いつの間にか、道祖神様の前では手を合わせる事が習慣になりました。
庚申様は、修験の山英彦山にも祀られています。

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写真⑬
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写真⑭

散歩コースも終わりが近づきました。
紹介した散歩コースをゆっくり歩くと約45分の行程になります。
この2枚の写真は、昭和40年代の面影を今に残す場所です。
池は養魚池なので、鯉が沢山泳いでいます。
この池で、よくザリガニを捕まえてました。
今もカエルが沢山います。
ジロくんもカエルの大きな咆哮に驚く事が、多かった場所です。
この砂利道は、写真③の上城野公園に繋がっている道なので、小学生時代は鬼ごっこや隠れんぼで走り回った場所でした。
この付近は、道路が狭く、以前は走り回る子供達や自転車に用心していましたが、ここでも子供達の姿は、殆ど見かけません。

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写真⑮

いよいよ、自宅に戻ってきました。
歴代ジロくんが歩いた道。
時代が平成に変わって約30年間、周囲は大きく変わりましたが、至る所に思い出が沢山在る、散歩道です。
この思い出を歴代ジロくんと共に大切にしたいと思います。

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何時も散歩途中に、ご挨拶を交わした皆さん。
お世話になったご近所の皆さん。
それに、ジロくんのお友達のワンくん達。
これからも時々、伺いますので、忘れないでね。

平成30年8月26日 秋葉 奈津子&ジロ







2018/07/29

応援をいただいている皆様にご連絡致します。

何時も私の記事に多数の応援を頂戴し感謝しております。


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私事になりますが、8月6日月曜日に引越しをする事になりました。
約50年近くの歳月を共にした家から、やっと見つけた身の丈に合った小さな家に引越します。

既に今月は、転居準備を進めていますが、今週は本格的な家財、ゴミも搬出もあります。
この様な状況ですので、皆さんのブロクへの応援が、時間的に困難となります。
更に、インターネットの移設工事が、既に依頼していますが、約1ヶ月は掛かるとの事。
この期間は、WIFI対応となるため、必用最低限の接続しかできません。

引越しが完了し、インターネットが旧来通り復旧致しましたら、又改めてご連絡致しますので、宜しくお願い申し上げます。

平成30年7月29日 秋葉 奈津子
2018/07/15

歴史を歩く198

42アジアの情勢⑤

4国共の合作と分離(その2)

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蒋介石

 孫文の死後、国民党内で指導権を握った人物が蒋介石です。
蒋介石(1887年~1975年)は、浙江省出身、保定軍官学校を卒業後、日本の陸軍士官学校に留学し(1908年~10年)、辛亥革命に呼応して帰国、一時上海で株の仲買人となった後、広東軍政府に参加し(1922年)、孫文の信任を得てソ連に留学、帰国後黄埔軍官学校の初代校長に就任します(1924年)。国民党内で左右の対立が深まる中、中山艦事件(1926年3月)を起こして共産党員を逮捕・追放し党・軍の両権を掌握しました。

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北伐を指揮する蒋介石

 1926年7月、国民革命軍総司令に就任した蒋介石は北方の軍閥勢力を打倒し、中国を統一する為に北伐(1926年7月~28年12月)を開始、国民革命軍は広州から二方面に分かれ、主力は湖南・湖北を目指し、他の一軍は福建・浙江を目指しました。
国民革命軍は民衆の支持を得て破竹の勢いで進撃し、僅か3ヶ月で武漢に達し、翌年3月には南京・上海を占領します。

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武漢国民政府後

 しかし、北伐が進展するにつれ、国民党内での左右の対立が深まり、国民党左派と共産党は1927年2月に武漢国民政府(武漢政府)を樹立し、武漢政府は、上海クーデター後に蒋介石が樹立した南京国民政府(南京政府)と対立しますが、更に内部対立によって7月には分裂、共産党が政府から退き、9月には国民党左派が南京政府に合流しました。

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上海クーデター

 1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデター(上海クーデター)を強行し、多数の共産党員と労働者の虐殺・逮捕を行い、15日迄の4日間に共産党員・革命的労働者300人以上が虐殺され、500人以上が逮捕され、5000人以上が逃亡または行方不明に成ったと云われています。
上海クーデターは、共産党の指導する労働者等によって上海が解放されたこと(1927年3月)に驚いた帝国主義列強と浙江財閥(上海を中心に中国経済界を支配した銀行を中心とする財閥)の求めに応じて蒋介石が起こした事件であり、これによって上海・南京地区の共産党組織は壊滅し、第1次国共合作は事実上崩壊しました。

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南京国民政府

 蒋介石は上海クーデター後、武漢政府に対抗して南京国民政府を樹立して(1927年4月18日)その主席となり、翌1928年4月には北伐を再開、北伐軍が山東省に入ると、日本は居留民の保護を口実に第2次山東出兵を行い、5月には北伐軍と日本軍との間に衝突が発生(済南事件)、蒋介石は日本との正面衝突を避ける為、済南を迂回して北伐を続行し、北伐軍はやがて北京に迫ります。

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張作霖

 当時、北京政府の実権を握っていた奉天軍閥の張作霖(1875年~1928年)は北伐軍に圧倒され、奉天への撤収を行いますが、1928年6月4日、張作霖の乗った列車が、奉天駅に到着する直前に日本軍(関東軍)によって爆破され、張作霖は爆殺(張作霖爆殺事件、奉天事件)されます。
もとに握った子の張学良(1901年~2001年)は日本の圧迫に屈せず、反日の姿勢を強めて蒋介石の統一を支持したので、国民党による中国統一は一応達成されました。
蒋介石は北伐完了後、国民政府主席に就任し(1928年8月、党・軍・政の三権を掌握。彼は浙江財閥と結び、アメリカやイギリスの支援を得て)政権の強化を図って行くことに成ります。

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井崗山で人民に語る毛沢東

 一方、国共分裂(1927年7月)後、共産党は華中・華南を中心に武装蜂起を試みたが失敗に終わり、こうした状況の中で毛沢東(1893年~1976年)は農村に革命の根拠地を構築する考えから、井崗山(江西省・湖南省境南部の山岳地帯)に退き、ここを紅軍(共産党軍)の根拠地とします(1927年10月)。
その後、毛沢東等は周辺の農村に勢力を拡大してソヴィエト区を構成し、更に紅軍の強化に努め、又ソヴィエト区では土地改革(総ての土地を地主から没収して農民に分配する)を進めた結果、1930年迄には15のソヴィエト区が生まれ、紅軍も約6万を数えるように成りました。

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中華ソヴィエト共和国臨時中央政府大礼堂

 1931年11月7日(ロシア革命記念日)、江西省の瑞金で中華ソヴィエト第1次全国代表者大会が開かれ、憲法・土地法・労働法等を採択し、毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国(中華ソヴィエト共和国臨時政府)の樹立が宣言され、以後、毛沢東の共産党と蒋介石の国民党は中国の統一をめぐって激しく対立して行くことになります。

名言集

我們要求的和平是以正義公理為中心的和平,而不是通過給予強大的入侵者而獲得的和平。
我們還必須清楚地認識到入侵者和反侵略者之間沒有自由或共存的感覺,機會主義/常年主義等機會更加令人無法接受。

われわれが要求する平和は、正義公理の上に立つ平和であり、強権侵略者に対し屈服投降して得る平和ではない。
われわれは侵略者と反侵略者の間には、安易感や共存がなく、日和見・姑息主義など、なおさら存在が許されないことも明確に認識しなければならない。

蒋介石

続く・・・




2018/06/26

歴史を歩く197

42アジアの情勢④

4国共の合作と分離(その1)

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レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン(Лев Михайлович Карахан、1889年1月20日 - 1937年9月20日)

 五・四運動を出発点として反日・反帝国主義運動が広まる中、ソヴィエト政府は外務人民委員代理カラハン(1889年~1937年)の名で、帝政ロシア時代の対中国不平等条約を破棄するというカラハン宣言を発し(1919年7月)、同宣言は中国国民から熱狂的な歓迎を受け、各界に大きな反響を呼び起こしました。

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陳独秀、1879年10月8日-1942年5月27日

 1921年7月には、上海で陳独秀を委員長として中国共産党が結成され、1924年6月、中国はソ連との国交を回復し、この間、アメリカの主導の下で開かれたワシントン会議(1921年~22年)で中国に関する九カ国条約が結ばれ、又この会議と並行して行われた日中間の直接交渉によって山東懸案に関する条約が調印されて(1922年2月)山東の旧ドイツの利権が中国に返還された結果、日本の中国進出は二十一カ条の要求以前の状態に後退します。

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段祺瑞(左)と馮国璋

 その頃、中国では軍閥戦争が激化し、安直戦争(1920年)では、米英をバックにした曹錕・呉佩孚等の直隷派が奉天派の張作霖と結んで、日本の支援を受けた段祺瑞(だんきずい、1865年~1936年)等の安徽派に勝利し、北京には奉直連合政権が成立しますが、その後直隷派と奉天派の抗争が激化して奉直戦争が勃発、第1次奉直戦争(1922年)では呉佩孚の率いる直隷派が圧勝しますが、第2次奉直戦争(1924年)では奉天派・安徽派を中心とする反直隷派が直隷派を破り、北京には段祺瑞を執政とする安徽派・奉天派・国民軍の連立政権が成立します(1924年11月)。

国共合作
国共合作

 一方、広州を中心に北京の軍閥政府に対抗していた孫文は、ロシア革命の成功に感銘を受け、ソ連に接近しました。
孫文は1923年1月にソ連の外交官ヨッフェ(1883年~1927年)と会談し、中国の統一と独立の為に国共合作(国民党と共産党の協力体制)を進めるとの共同宣言を発表し、1924年1月、広州で開かれた中国国民党第1回全国代表大会(一全大会)で「連ソ・容共・扶助工農」(ソ連と提携し、共産主義を受け容れ、労働者と農民を支援するの意味)の三大政策を発表します。

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黄埔軍官学校

 孫文はこの方針に従って国民党を改組し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認め、これによって第1次国共合作(1924年1月~27年7月)が成立しました。
更に大会では国民革命軍の育成が決定され、黄埔軍官学校が設立され(1924年6月)、校長にはソ連留学から帰ったばかりの蒋介石が任じられます。

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中山紀念堂の孫文像

 反帝国主義・打倒軍閥・反封建主義の国民革命を目ざした孫文は、第2次奉直戦争後の時局収拾の為に北京に赴きますが(1924年12月)、1925年3月に「革命未だ成らず」の遺言を残して北京で客死しました。
尚、この北京への途上で神戸に立ち寄った孫文は、有名な「大アジア主義」と題する講演を行い、中国のみならず全アジアの被圧迫民族の解放に力を貸すことが日本の進むべき道であると訴えて大きな感銘を与えたのでした。

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1925年5月30日、南京路に集った学生市民労働者たち

 孫文の死から2ヶ月後、上海で五・三〇事件と呼ばれる反帝国主義運動が勃発、その発端となったのは、5月15日に日本人が経営する上海の紡績工場で中国人労働者が射殺された事件でした。
1925年5月30日、約2000人の学生が上海の租界で労働者の射殺に抗議するデモを行い、それに対してイギリス警官隊は多くの学生を逮捕すると共に、抗議に集まった1万人以上の学生・労働者に発砲し、多数の死傷者を出します。
この事件が五・三〇事件です。

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五・三〇事件を風刺した当時の プロパガンダポスター

 この五・三〇事件に抗議して、6月1日から上海全市の労働者・学生・商人がゼネストに入ると、反帝国主義運動は忽ち全国の主要都市に広まり、各地で衝突が起こり、流血事件が頻発します。
五・三〇運動は、9月に入ると大部分の地方では収まりますが、この運動では五・四運動の時の学生に代わって労働者階級が先鋒を務めました。
このことは以後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、反帝国主義運動が全国に広まる中で、国民党は1925年7月に広州で中華民国国民政府(国民政府、広東政府)の樹立を宣言し、国民革命軍も組織されが、国民党内部ではこの頃既に左右の対立が深まって行く事になります。

名言集

革命至今不成

革命いまだ成らず。

孫文


続く・・・


2018/06/11

歴史を歩く196

42アジアの情勢③

3朝鮮の三・一運動

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朝鮮総督府

 日本は朝鮮を併合(1910年8月)した後、京城(現ソウル)に朝鮮総督府を置いて武断政治を行い、憲兵警察制度の下で朝鮮を厳しい監視・統制の下に置きました。
朝鮮人は武断政治の下で次々に政治的・経済的権利を奪われ、 朝鮮人には参政権は勿論、集会・結社・言論の自由も認められず、併合直後から進められた土地調査事業によって多くの農民が土地を奪われ、小作人になるか、日本や満州へ流亡を余儀なくされました。

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孫秉煕像

 又併合直後に公布された会社令によって会社の設立は認可制とされ、民族産業の発展も抑えられ、
こうした日本の武断政治に対する朝鮮人の不満・反発が高まり、反日の気運は社会各層に広まり、特に第一次世界大戦末期にロシア革命が起こり、パリ講和会議で民族自決の原則が唱えられると、日本への朝鮮人留学生をはじめとする在外朝鮮人の間に独立運動が広まり、朝鮮国内でも天道教(東学をもとにして発展した民族宗教)・キリスト教・仏教等宗教界の指導者達が天道教主の孫秉煕(そんへいき)を中心として独立運動を進めていました。

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高宗李太王

 1919年1月に高宗李太王(李朝第26代の王、在位1863年~1907年、李太王は併合後に日本が付けた名称)が急逝し、日本人による毒殺であるとの噂が広まり、孫秉煕等は、当初、高宗の国葬の日である3月3日に独立宣言書発表を画策しますが、日本の官憲の警戒が厳しくなる事を恐れて3月1日に変更します。

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タプコル(パゴダ)公園・三一独立運動レリーフ

 1919年3月1日、孫秉煕等民族代表者29名は独立宣言書を発表した後に自首して憲兵隊に逮捕された、その頃京城(現ソウル)のパゴダ公園に集まっていた約5000人の学生・市民達を前に学生代表が独立宣言書を読み上げると、人々は「独立万歳」を叫んでデモ行進を行い、これに多くの市民が次々と加わり、数十万人が「独立万歳」を叫んでデモ行進を行います。

三・一運動
三・一運動(万歳事件)

 この運動はたちまち朝鮮全土に広まり、各地で「独立万歳」を叫ぶデモや集会が行われ、日本の厳しい弾圧にも係わらず約1年間継続し、200万人以上が参加したと云われており、後に三・一運動(万歳事件)と呼ばれる事件です。

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報知新聞 1919.4.7 (大正8)

 三・一運動は日本の軍隊と警察によって徹底的に弾圧され、1年間で7千数百名の死者と約5万人の逮捕者を出して終結しますが、三・一運動はその後の朝鮮民族運動の出発点となり、三・一運動後、日本は武断政治をある程度ゆるめて「文化政治」に改め、朝鮮語による新聞や雑誌の発刊を許可する等、限られた範囲内での自由を認める政策を行いますが、同化政策や日本の経済支配は一層推し進められたのでした。

名言集

무 실력 행

務実力行(空理・空論を排除し、誠に誠実を尽くすことを説いた思想)

안창호/安昌浩(アン・チャンホ、안창호、1878年11月9日 - 1938年3月10日)

続く・・・