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2018/12/14

歴史を歩く200

6東南アジアの独立・改革運動

① ヴェトナム

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ホー・チ・ミン(胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)

 欧米列強の植民地支配下に置かれていた東南アジア諸地域でも第一次世界大戦後、独立運動や民族運動が高揚しはじめます。

フランスの植民地であったヴェトナムで民族運動の中心となった人物がホー・チ・ミンです。
ホー・チ・ミン(胡志明、1890年~1969年、本名はグェン・タトゥ・タン、一時はグェン・アイ・クォク(阮愛国)と名のる)は、ゲアン省の学者の家庭に生まれ、大学で学んだ後に船員となってフランスに渡航(1911年)、その後、ロシア革命に刺激されてマルクス主義に近づき、フランス共産党に入党(1920年)、1924年のコミンテルン第5回大会に出席した後、中国に渡り、広州でヴェトナム青年革命同志会を結成し(1925年)、1930年には香港でヴェトナム共産党(同年インドシナ共産党と改称)を結成し、インドシナ共産党は労働者・農民に支持され、以後の対仏・対日の抵抗・独立闘争の主体となりますが、ホー・チ・ミンは香港でイギリス警察に逮捕され(1931年)、釈放後はソ連に渡り(1934年)、1941年に帰国してヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成しました。

※ホー・チ・ミン⇒栄光の人を意味します。

② ビルマ

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サヤー・サン( 1876年10月24日 – 1931年11月28日:ターヤワディーの 公園内に建つサヤーサンの銅像)

 インド帝国に併合されていたビルマ(ミャンマー)ではインドからの分離を求める運動が活発になり、ビルマの民族運動の指導者サヤー・サン(1876年~1931年)が反英武力闘争に立ち上がると(1930年)、運動はたちまちビルマ各地に広まり、農民蜂起(1930年~32年)に発展しました。

イギリスはインドからも増援軍を送り込んで鎮圧を進め、サヤー・サン等指導者を処刑しますが、同じ頃、ラングーン大学の卒業生達によってタキン党が結成されます。
タキン党は、当初「我等ビルマ人協会」と称していましたが、後にタキン(主人の意味)党と改称し、1930年代中頃からビルマの即時完全独立を要求し、アウン・サン(1915年~47年)やウー・ヌー(1907年~95年、後のビルマ共和国初代首相)等を中心に学生運動や都市のストライキを組織しました。

 イギリスはこのような動きに押され、1935年の新インド統治法によってビルマの分離を決定し、さらに1937年にはビルマ統治法で準自治領としますが、タキン党はその後も完全独立を目指して反英独立闘争を展開します。

③ インドネシア

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スカルノ(1901年6月6日 - 1970年6月21日:1930年代のスカルノ(中央)Wikipediaより)

 オランダの植民地支配下に置かれていたインドネシアの民族運動は、1911年に設立されたサリカット・イスラム(イスラム同盟)や1920年に結成されたインドネシア共産党によって推進されました。

 インドネシア共産党はアジア最初の共産党で、1926~27年にバタヴィアやスマトラ西部での武装蜂起に失敗し、インドネシア共産党は以後非合法化されます。

 この頃、インドネシア民族運動の指導者として登場してくる人物がスカルノです。
スカルノ(1901年~70年)は、東部ジャワのスラバヤに生まれ、オランダ人小学校に入学して西欧式の教育を受け、バンドン工科大学を卒業(1925年)、大学在学中からオランダに対する独立運動に参加したスカルノは、1927年に民族主義団体を設立し、この民族主義団体は翌年インドネシア国民党と改称しますが、インドネシア国民党は弾圧を受け、スカルノも逮捕・投獄されます(1929年~31年)。
スカルノはその後釈放、逮捕を繰り返し、流刑となった(1933年~42年)為、インドネシアの民族運動は一時停滞します。

④ フィリピン

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マロロス市における発足式での革命軍の行進。1899年1月23日

 米西戦争(1898年)後、アメリカの植民地となったフィリピンでは、フィリピン革命(1896年~1902年)が失敗に終わった後もアメリカに対する独立運動が続きました。

 アメリカは、1916年のジョーンズ法で、上下両院の設置など広汎な自治を認めましたが、独立については安定した政権が樹立され次第とする、単なる約束事項にと留まっていました。

 世界恐慌に苦しむ中で従来の外交政策を転換したアメリカは、1934年にフィリピンの自治を認める法案を成立させ、翌1935年には独立準備政府を発足させて自治を認めると共に10年後の独立を約束する事になります。

⑤ タイ

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ラーマ7世・Wikipediaより

 東南アジア諸国の中で唯一独立を維持したタイでは、1925年にラーマ7世(チャクリ朝第7代の王、大王と呼ばれたラーマ5世の子、前王ラーマ6世の弟)が即位し、この頃、パリのタイ人留学生等によって結成された人民党(1927年設立)は絶対王制打倒・立憲君主制樹立を主張していました。

 世界恐慌の影響と長年の財政窮乏によってタイ経済が悪化すると、ラーマ7世は官吏と軍人の整理・大幅減俸や重税の新設等を断行した為にチャクリ朝の専制政治に対する国民の反感が強まり、
1932年6月24日、人民党による立憲革命が勃発、人民党は軍部の同調者と共にクーデターを起こし、ラーマ7世に立憲君主制の樹立を認めさせ、同年、タイ最初の憲法が制定されます。

 その後、立憲革命で台頭したピブン(1897年~1964年、タイの軍人)が首相となり(1938年)、1939年には国名をシャムからタイ(自由・自由民の意味)に改めます。

名言集

không có gì quý hơn độc lập, tự do

自由と独立ほど尊いものは何もない


続く・・・

2018/11/27

思い出の場所を訪ねて

遠賀川、英彦山川に沿って

ジロくんが旅立って、来月1日で49日を迎えます。
私に取って、早い様な、長い様な不思議な感覚の7週間です。
11月中旬、以前ジロくんと一緒に訪問した社を改めて、お参りして来ました。

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今回、一緒に参りしたマスコットのジロくんです。


①八剣神社

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福岡県鞍手郡鞍手町八剣神社

福岡県の遠賀川沿いには、日本武尊を祀る剣神社、八剣神社が数多くあります。
鞍手地域は物部氏の本貫地で、日本武尊は熊襲征伐の折りに、軍事的援助を目的に滞在したと考えられます。
遠賀町立屋敷にも八剣神社があります。
ここで、砧姫を娶られ、二人がお手植えされたという銀杏が、二本大きくそびえています。
鞍手町には、日本武尊が香月氏の始祖オサダヒコの娘常磐津姫を娶り、小磐削の御剣王が誕生します。
更にその子の種日子王は、神功皇后の三韓征伐に従軍した、という話が残っています。

②英彦山大権現

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英彦山大権現様入口

福岡県添田町と大分県中津市にまたがる標高1200mの英彦山は、耶馬日田英彦山国定公園に指定されており、日本二百名山・日本百景・日本三大彦山に数えられています。
紅葉の季節には多くの観光客が訪れる、英彦山には複数の神社があり、その一つに英彦山大権現があります。
明治元年に神仏分離令が発布されて英彦山大権現は消滅してしまい、百余年消え去られようとしていましたが、昭和54年に現在の形で再興されています。
英彦山大権現には庭園があり、紅葉を見ることができるスポットにもなっています。
私が訪問した11月中旬、既に紅葉の盛りは過ぎていましたが、それでも綺麗な風景でした。

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英彦山大権現碑

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御社

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庭園と紅葉

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鐘楼

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庭園の紅葉

③添田神社・添田公園

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添田神社

田川郡添田町の中央、岩石山(がんじゃくさん)の麓に位置する「添田神社」は、旧添田村の産土神で知られる御社。
その昔、山頂に天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が祀られていたことに由来し、保元3年(1158年)、平清盛が同地に岩石城を築いた際に、麓に新しい御社を建立し、太宰府天満宮の分霊を合祀したことが始まりと言われています。

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御神木

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添田公園の不動明王

添田神社に隣接して、岩石山の麓から中腹にかけて広がる「添田公園」は、桜の名所として福岡県内でも有名です。
楼門先に広がる園内は吉野桜、八重桜、山桜等桜の他、梅やツツジ等四季の彩りが豊かな公園です。

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添田公園のジロくん(平成30年4月21日撮影)

ジロくん

思えば、今年の6月16日にジロくんと一緒に、遠賀川・彦山川方面をドライブした日が、ジロくんとの社巡りの最後だった。
あの日、八剣神社で撮影した写真が、今迄で一番良く撮れた写真だったのに、その写真がまさか遺影になるとは、思ってもいなかった。
添田公園で暫く遊んだ後、何時もなら直ぐ車のシートに収まるのに、その日は何故か名残深そうに周囲を眺め、匂いを嗅いでいた事を今でも覚ているよ。
「涼しくなったら又来ようね」
その言葉は実現出来なかったけど、ジロくんも今回の訪問の時は、一緒だったと思ってる。


PS:今回の紹介文は、各町の観光案内を参考にしています。

平成30年11月27日 by秋葉 奈津子

2018/11/05

ジロくんと歩いた風景

ジロくんの60日

ジロくんが旅立って、3週間余りが過ぎました。
ジロくんが、何時も居た場所には、先の記事にも載せた、八剣神社での姿を遺影として残しています。
今回、僅かな間ですが、晩年のジロくんと散歩した風景を紹介します。
季節が前後しますが、ご容赦下さい。

クンクンタイム
クンクンタイム

散歩のスタート毎に確認とマーキング作業は怠りません。

自宅前の坂道
自宅前の坂道

これからゆっくりとこの坂道を下ります。
見にくいですが、前方の横断歩道手前が散歩道の大川です。

大川
大川


大川は小さな川ですが、鮎が住んでいます。
川面をみると、泳いでいる姿が見る事ができます。
この川は、毎月清掃されているので、大変綺麗な川ですが、先の7月豪雨の時は、増水して周囲の道路迄水が溢れたそうです。
自然の力は怖いですね。

大川沿いの百日紅
大川沿いの百日紅

ジロくんと歩いた門司のこの付近は、百日紅が多く、写真の様に川沿いや民家の庭にも綺麗な花を咲かせていました。

大川沿いの彼岸花
大川沿いの彼岸花

この大川沿いには、彼岸花が多く咲いていますが、白い彼岸花が多いのです。
私は、これ程多くの白い彼岸花が固まって咲いている光景を余り見た記憶がありません。

おおかわ橋
大川に掛かるおおかわ橋

この橋迄来ると、川を離れて、おおかわ公園に向かます。
途中県道262号線を渡りますが、流石に此処では、ジロくんもそれまでのゆっくりモードから早足モードに切り替えて急いで渡ります。

矢筈山の夜明け
矢筈山の夜明け

8月下旬から9月上旬は、午前6時前には陽が射し始めます。
今日も良いお天気に恵まれそうです。

おおかわ公園
大川公園

ジロくんの散歩の折り返し地点の大川公園です。
此処まで、自宅からゆっくり歩いて15分前後、若い頃のジロくんなら10分弱で着きそうですが、無理は禁物。
途中でバスを待つ、女子高生の皆さんに挨拶されて、公園に入ります。

おおかわ公園2
大川公園の周回路

この公園は周囲に歩道が在って、朝の運動をしている皆さんが多いです。
ジロくんもその中に混じって、歩道を一周。
何時も出会う皆さんとは、すっかり顔馴染みになってしまいました。

疲れたよ〜
疲れた〜でも満足

往復約30分の散歩は、朝晩2回でした。
トイレも済ませて、ブラッシングも終わり、後はご飯を待つばかり。

自宅から見える風景

皿倉山八幡方向を望む
山口県下関市彦島

関門海峡を挟んで対岸は、本州の山口県下関市彦島です。
この写真の右手には、佐々木小次郎と宮本武蔵で有名な巌流島が在ります。

風師山方向
自宅の北側、風師山方向

風師山本体の姿が写っていないのですが、この先で関門海峡はぐっと狭くなり、その上を関門橋が渡っています。
治承・寿永の乱(源平合戦)の最後の合戦となった壇ノ浦の戦いは、関門橋の付近と伝えられています。

関門海峡の夕暮れ
関門海峡の夕暮れ


写真の右側は山口県下関市。
左側は北九州市で小倉北区、戸畑区、若松区迄見渡せます。
天気が良ければ、約40km離れた、遠賀郡の湯川山もはっきりと見えます。

愛おしいジロくんへ。

僅か60日余りの短い間だったけど、始めて川の和流を感じ、海峡を通る船の大きな汽笛に驚き、城野に居た頃は、毎年夏の散歩は何時も暑さで私も君もぐったりして家に帰っていたよね。
門司は、涼しい山からの吹き降ろしの風に助けられて、8月でも汗も殆ど無く、散歩できた!
貴方の風をうけて歩く姿は、綺麗だったよ。
ジロくん、門司でも沢山の皆さんに可愛がられた事、忘れないでね。


最後に

自宅に咲いた彼岸花
自宅に咲いた彼岸花

私がブロクを始めて10年間、毎日、拝見していた方の愛犬が、ジロくんの後を追う様に、急逝されました。
ブロクを通してお知り合いになれた、いっこさんへ、とんかつくんのご冥福を心よりお祈り致します。
とんかつくん、安らかに。

平成30年11月5日 by 秋葉 奈津子





2018/10/19

お知らせ

ジロくんが旅立って行きました

ジロくんは、10月13日土曜日午前10時30分、旅立っていきました。
12歳8か月8日、病気も一切無く、頑張ってくれました。
以前より時折このブロクで近況をお知らせしていましたが、ジロくんに沢山の応援、励ましをありがとうございました。
改めて心より感謝申し上げます。

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ジロくん(2018年6月16日・福岡県鞍手郡鞍手町八剱神社境内にて)

2代目ジロくんを胆のう障害で失い、約8か月のブランクを経て、春のお彼岸の中日、ブリーダー様より我が家の家族になりました。
仔犬時代から元気いっぱいの明るい性格で、何でもペロペロ舐める癖があり、近所の子供達からペロペロワンちゃんと呼ばれて、可愛がってもらいました。
初代、2代がコリー犬だったので、初めてのセットランドシープドッグは、成犬になっても小型な印象でしたが、ジロくんはその体とはかけ離れて、吠え声が大きく、驚いたものです。
自宅の敷地内に見慣れない人物が入ると、猛烈に吠えるのですが、その反面近所の皆さんや子供達に吠える事は。ほとんどなく、良く「ジロくんの吠える声が聞こえると、外を覗う」と云われたものです。

元気に歳を重ねて行きましたが、一昨年より白内障で、視力が低下し、良いお天気の日や日中の散歩は、ジロくんも苦労する様になり、散歩も早朝、夜間に変えましたが、他は従来と変わりませんでした。
仔犬時代は室内中心、満1歳になってから、日中は屋外、夜は室内生活に切り替えましたが、若い頃から室内に入ると自分で決めた場所(何故か仏壇の前)を陣取り、トイレ以外は、余り動く事はなく、本当に大人しい犬でした。

今年の秋のお彼岸過ぎから、後ろ脚に力が入らなくなり、食事も減り始め、私が帰宅しても出迎える事も無くなり、何時も静かに横になっている事が多く、その様な状況で、苦しむ事も無く静かに最後の時を迎えました。
最後に大きな尻尾を2度振ってくれたのが、お別れの挨拶だったと思います。
今は、黄泉の国で、両親、初代、2代ジロくんと一緒に過ごしている事と思います。

ジロくん、最後の日迄、本当にありがとう。
何時か、私がそちらに行ったら、その時は又ペロペロしてね。

室内にて①
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怪獣現る!(2018年8月26日撮影)

室内にて②
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安らかに (2018年10月13日撮影)

親愛なるジロくんへ by 秋葉 奈津子
2018/09/30

歴史を歩く199

42アジアの情勢⑥

5インドの独立運動

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ローラット委員会 (Rowlatt Committee) の長、シドニー・ローラット (Sydney Rowlatt)

 第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドに戦後の自治を約束し(1917年8月にインド担当相モンタギューが行った)、インドの協力を求め、インドに住む人々はその約束を信じ、120万の兵員を動員し、物資を供給してイギリスに協力しました。
しかし、1919年に公布されたインド統治法では州自治の一部が与えられただけで、人々の期待した自治の約束には程遠いもので在り、その上イギリスは、1919年3月にローラット法を発布し、逮捕令状無しの逮捕・裁判抜きの投獄を行う権限をインド総督に与え、インドの民族運動を弾圧しました。

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アムリットサル虐殺事件

 1919年4月13日、パンジャーブ地方のアムリットサル(アムリツァール)で開かれた自治の約束無視とローラット法発布に対する抗議集会に集まった約1万人の群衆にイギリス軍が発砲し、約400人が死亡し1000人以上が負傷するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インドの反英運動は激化して行きますが、この時期にインドの民族運動の指導者として、反英独立運動の先頭に立った人物がガンディーでした。

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モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー:Mohandas Karamchand Gandhi、(1869年10月2日 - 1948年1月30日)

 ガンディー(1869年~1948年、マハトマ・ガンディーのマハトマは「偉大な魂」の意味)は西部インドの下級官吏の家に生まれ、ロンドンに留学して(1888年~91年)弁護士となり、帰国後南アフリカに渡ってサティヤーグラハ(サティヤーは真理、グラハは把握の意味、ガンディーはこの言葉に非暴力抵抗の意味を与えた)の運動を指導し、人種差別政策と闘い(1893年~1914年)、帰国(1915年)後国民会議派に加わって、インドで活動します。

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イギリス商品ボイコット、インド綿を紡ぐガンディー

 ガンディーは、第一次世界大戦では自治の約束に期待して、イギリスに協力しますが、戦後約束が守られないと、「我々はパンを求めて石を与えられた」とイギリスの背信に強く抗議し、ローラット法が施行されると非暴力・不服従(サティヤーグラハ)の運動を指導し(第1次1919年~22年、第2次1930年~34年)、大戦中から反英的になっていた全インド・ムスリム連盟も国民会議と提携した為(1920年)、イギリス商品のボイコット・イギリスの行政機関への非協力・公立学校の生徒の退学・商店の自主的休業・地租支払い拒否等の運動が全インドに広がりました。

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非暴力・不服従を呼びかけるガンディー

 しかし、1922年2月に蜂起した農民が警察署を襲って警官22名を殺害する出来事が起きると、ガンディーは不服従運動の中止を宣言したものの逮捕され、6年の懲役に処せられます。
ガンディーは2年後に釈放されますが、その後数年間は政治から離れ、以後国民会議派内の分裂やヒンドゥー・イスラム両教徒の対立等も在り運動は停滞しました。

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ジャワハルラール・ネルー(ネール) ( 1889年11月14日 - 1964年5月27日)

 この頃、国民会議派内ではネルー(ネール)を指導者とするより急進的なグループ(国民会議派左派)が台頭しており、ネルー(ネール、1889年~1964年)は、アラハバード市で富裕なバラモン階級の弁護士の家庭に生まれ、イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業し、弁護士の資格を得て帰国(1905年~12年)し、弁護士となったネルーはガンディーと出会って国民会議派に入り、民族運動に身を投じ(1920頃)、国民会議派の若手の政治家として活躍、1920年代後半からは国民会議派の指導者と成りました。

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塩の行進

 1929年12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ・スワラジ(完全なる自治)」が宣言され、このラホール大会を機に運動は再び激化し、翌年から第2次の非暴力・不服従運動(1930年~34年)が始まりました。
1930年3月、再び運動の先頭に立ったガンディーは製塩禁止法に反対して360kmに及ぶ有名な「塩の行進」を行ない、再び逮捕されます。

チャップリンとガンディー
第2回英印円卓会議出席の際、喜劇王チャップリンと会談するガンディー

 翌年釈放されたガンディーは、ロンドンで開かれた第2回英印円卓会議(イギリスがインドの独立運動の高まりを抑えるために指導者をロンドンに招いて開いた会議)に出席しますが、何ら成果のない会議に絶望して帰国し、3度目の逮捕を経験します(1932年1月)。
1934年に国民会議派を引退したガンディーは、その後不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼等をハリジャン(神の子)と呼びました。

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ガンディーとネルー

 イギリスは指導者を逮捕・投獄する一方で英印円卓会議(1930年~32年)を開く等、弾圧と懐柔をくり返す中で、1935年には新インド統治法(改正インド統治法)を制定します。
新インド統治法では連邦制と各州の責任自治制が導入されますが、インド人の完全独立の要求は無視され、かえってその導入をめぐってヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド・ムスリム連盟の対立が深まっていきました。

名言集

Because there is bondage,
I can fly.
Because there is sorrow,
I can fly high.
Because there is adversity,
I can run.
Because there is tears,
I will move forward.

束縛があるからこそ、
私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、
私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、
私は走れるのだ。
涙があるからこそ、
私は前に進めるのだ。


続く・・・