2017/05/07

歴史を歩く157

36東アジアの激動④

3太平天国の興亡

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太平天国の乱100週年切手・中華人民共和国郵政

 清がアヘン戦争(1840年~42年)・アロー戦争(1856年~60年)の対外的な問題に直面している時期、国内では太平天国の乱(1851年~64年)が発生します。

 アヘン戦争による多額の戦費と賠償金の支払いは、銀価の高騰をまねき、又重税となって農民の生活を圧迫し、その上水害・干害・蝗害等の天災が相次ぎ、多くの窮乏化した農民は流民となり、全国に貧民・流民・失業者があふれ、各地で暴動や反乱が相次ぎますが、アヘン戦争の影響が大きかった広東・広西省では太平天国の乱(1851年~64年)が勃発します。

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洪秀全

 太平天国の指導者洪秀全(1813年~64年)は、広東省花県の客家出身でした。
客家(ハッカ)とは部外者の意味で、広東・広西・江西・福建等の山間僻地に住んだ移住民を指す言葉です。
彼等は、外部から移住してきた人達で、元から住んでいた住民から差別され、多くは小作・炭焼き・木こり・鉱山労働・運輸労働等に従事していました。

 洪秀全の家は中農で、彼は幼少の頃から聡明で、7歳頃から塾で学び、村の塾の教師となって科挙の受験勉強に励みますが、30歳過ぎ迄に地方試験を4回挑戦しますがいずれも失敗しています。
洪秀全は3回目の試験に失敗した時に心痛の余り高熱を発し、40日間寝込むのですが、その時病床で夢を見ました。
その夢の中に一人の老人が現れ、彼に一振りの剣を与えて「悪魔を根滅せよ」と命じ、この夢を見たあと病気は治り、再び受験勉強に励み4回目の受験をしてまた落第します。

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勧世良言

 失意の中、彼は偶然に2回目の受験の時に広州の路上でもらった「勧世良言」と云うパンフレットを読み、そこに書かれている内容が病床で見た夢とよく似ていることに驚き、その本を何度も読み返しました。
「勧世良言」はプロテスタントの伝道書でした。

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太平天国における礼拝

 洪秀全は、夢の中に現れた老人はヤハウェ(エホバ)であり、ヤハウェはこの世で苦しむ人を救う為に自分を遣わしたと信ずるようになり、自分はヤハウェの子であり、イエス・キリストの弟であると称し、そして同郷の馮雲山等と上帝会(拝上帝会)と名づけたキリスト教的結社を組織して布教を始めます(1844年以降)。
ここで上帝とはヤハウェを意味しています。

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太平天国の伝道教育

 洪秀全等は、上帝を信仰すれば地上の天国で生き、死ねば天国へ昇ることができると説き、地上の天国は、総ての者が均等に分け与えられるので貧富の差のない世であると説いて、太平天国と呼んだのでした。
上帝会は、広西省を中心に布教し、貧農や鉱山労働者・炭焼き人夫等貧しい人々(多くは客家であった)の間に多くの信者を獲得し、この間、後の太平天国の幹部となる楊秀清(炭焼き)・蕭朝貴(貧農)・韋昌輝(地主)・石達開(地主)等が上帝会に入会していますが、彼等も客家出身でした。

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上帝会信徒が集合した金田村

 洪秀全は、上帝会信徒に広西省金田村に集合するようにという指令を発し(1850年7月頃)、約1万人が金田村に集まりました。
1851年1月、洪秀全は広西省金田村で太平天国の起義を宣言し、国号を太平天国と号し、彼自身は天王と称しました。
太平天国軍は、北に向かって進撃し、永安・桂林・全州を経て湖南省の長沙を包囲したが陥れることが出来ず囲みを解いて北に向かい、益陽で民船千数百艘を得て、その後水路を進み、岳州で多量の武器弾薬を手に入れ、1853年1月にはついに武昌を占領します。

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金田起義

 太平天国軍が湖南省へ進出した頃から貧農や流民が大挙参加し、太平天国軍の兵力は急激に膨張して約50万の大軍となり、太平天国軍は水陸両軍に分かれて長江を下り、1853年3月には終に南京を占領し、天京と改称して都と定めます。

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南京に入城する太平軍

 太平天国軍の最盛期(1854年~55年頃)の兵力は約300万(老弱男女すべてを含めた数)と云われており、太平天国軍がこのように急激に増加した最大の理由は「太平天国に行けば食える」と云う事が最大の理由で、太平天国内では総ての者が均等に分け与えられたと云う事も多くの人々を引きつけた大きな理由でした。

 太平天国が挙兵から2年余りで南京を攻略できたのは、「軍隊よりは盗賊の方がまし」と云われた様に清の正規軍の腐敗が甚だしかったのに対し、太平天国軍は規律が厳格で、殺人・放火・暴行・略奪等は一切行わず、役人・地主・富豪を襲って租税や田地に関する文書や借金証書を焼き捨てたものの農民には決して手出しをしなかったので民衆の支持を得ることが出来たからでした。
当時の書物には「太平天国軍がやってくれば争って迎え、官軍がやってくればこれを避けて門を閉じた」と書かれています。

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長髪と弁髪

 太平天国は、早くから「滅満興漢」(満州人の王朝である清を滅ぼして漢民族の国家を興すの意味)と云う民族主義的なスローガンを掲げ、清朝が強制した満州人の風習である弁髪を廃止して長髪としたので、太平天国の乱は長髪族の乱とも呼ばれました。
太平天国が理想とした平等主義を最もよく示している事柄が南京占領直後(1853年3月)に発布した「天朝田畝制度」と呼ばれる土地制度で、土地を男女の別なく均等に配分し、余剰生産物はすべて国庫に納入させる方法ですが、実施には至りませんでした。

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天朝田畝制度

 又アヘンの吸飲の禁止・纏足(中国では小足が美人の条件とされていたので、良家の子女の足指を4・5歳頃から足裏の方に曲げて布を堅く巻いて縛り、足の成長を妨げて小さくした風習で五代(907~960)頃に始まったとされている)の禁止等悪習の撤廃・男女の平等と身分制の廃止・租税の軽減等をスローガンに掲げて民衆の支持を得ました。

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太平天国軍高官と兵士

 太平天国は、間も無く清朝の打倒を目指して北伐軍を起こし(1853年5月)、10月には天津に迫りましたが陥れることが出来ず、その後も2年間にわたって戦いを続けましたが、蒙古騎兵の攻撃を受けて壊滅します(1855年)。
北伐と同時に西征の軍を進めましたが、これは曾国藩の湘軍との長い戦いの始まりとなりました。

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忠王府

 この様な状況の中で、天京では太平天国内部で権力争いが起こります。
太平天国の幹部は洪秀全・馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開等でしたが、馮雲山と蕭朝貴はすでに戦死しており(1852年)、その後、楊秀清の権力が強まり彼の横暴に対する反感が強まってくると、洪秀全に支持された韋昌輝が楊秀清とその一族を虐殺しますが(1856)、その韋昌輝も洪秀全に殺され(1856年)、石達開はこうした内紛を嫌って、太平天国を離脱し、長江中流域を転戦した後に四川で清軍に捕えられて処刑されています(1863年)。

 以後、洪秀全は凡庸な一族の者を登用した結果、太平天国は内部から腐敗が始まり、又天朝田畝制度等理想として掲げた政策も実施されなかった為、太平天国は次第に内外の支持を失って行きました。
清の正規軍(八旗や緑営)が弱体化すると、地方の地主や富豪達は自分達の生命や財産を守る為に自分で兵を集めて軍隊を組織します。

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湘軍

 清末に、正規軍の不足を補うために地方官や郷紳(科挙に合格しても官吏とならず、郷里に住んだ地方の有力者、多くは地主であった)が募集した臨時の義勇軍は郷勇と呼ばれ、なかでも曾国藩(1811年~72年)が1853年に郷里の湖南省湘郷県で組織した湘軍や李鴻章(1823年~1901年)が曾国藩の命を受けて1862年に安徽省で組織した淮軍は特に有力で、太平天国討伐の主力となり、正規軍以上に戦果を上げる事になります。

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天京を攻撃するイギリス艦隊

 イギリス等各国は太平天国がキリスト教を奉じているので初めは中立の立場をとっていましたが、太平天国がアヘン貿易や不平等条約を認めないことが判ると、北京条約(1860年)で英仏の要求をそのまま受け入れた清朝が存続した方が有利であると考えて、太平天国鎮圧に協力する様になります。

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戦闘指揮を執るウォード

 アメリカ人のウォード(1831年~62年)は太平天国軍が上海に迫ると(1860年8月)、上海商人の要請によって200人の外人部隊を編成して太平天国軍を撃退し、翌年この部隊を解散して外国人将校の下に中国人傭兵を集めた軍を編成して上海周辺の防衛に活躍し、「常勝軍」の名称を得ています。

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清朝官吏の衣装を纏うゴードン

 ウォードの戦死後、イギリス人ゴードン(1833年~85年)が指揮官となり(1863年)、3000人の部隊を率いて江蘇省各地を転戦して太平天国鎮圧に大きな役割を果たしました。

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太平軍と清国軍の戦闘
 
李鴻章の淮軍と常勝軍は江蘇省・浙江省の太平天国の占領地を次々に奪回して東から天京に迫り、曾国藩の湘軍は西から天京に迫り、太平天国では李秀成(1823年~64年)が奮戦しましたが、1864年3月、湘軍によって天京(南京)は包囲され、洪秀全は毒を仰いで自殺し(1864年6月)、1864年7月、終に天京(南京)が陥落して太平天国(1851年~64年)は滅亡しました。

 太平天国運動は近代中国に於ける民族運動の先駆となり、その後の中国の民族運動に大きな影響を及ぼし、又これによって清朝の権威は失墜し、太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が台頭するきっかけと成りました。

ジョークは如何?

とある国の君主が戦争に臨んで:
国王「将軍、今度の戦はことのほか厳しそうだ。何か良い策はあるのか?」
将軍「難しゅう御座います。勝敗は時の運で御座いましょう」
国王「それでは困る!何とか必勝の策は出ないのか?」
将軍「左様、2つ御座います。一つは、王が私めの采配に口を差し挟まないこと。
もう一つは、敵将の采配に王が口を差し挟むこと」

続く・・・
2017/04/24

歴史を歩く156

36東アジアの激動③

2アロー戦争とロシア

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南京条約によって開港した5港

 イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待しましたが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがりませんでした。

 イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて首都北京の近くに存在せず、又広州では領事の駐在や居留地設置が延期されるなど、中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めましたが清朝は応じず、そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会を窺っていました。

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イギリス国旗を降ろす清国官憲

 その時偶然アロー号事件が発生します。
1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小型帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕される事件が発生し、後にこれがアロー号事件呼ばれます。

 イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求しました。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、又イギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶します。

 イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会と捉え、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世も共同で出兵し、アロー戦争(1856年~60年)を引き起こし、アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれています。

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大沽砲台を攻撃するイギリス軍の67歩兵隊

 イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃しますが、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待ちます。
イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのは、ようやく1857年12月になってからの事でした。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くし、翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫ります。

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天津条約批准

 対外的にはアロー戦争(1856年~60年)、国内では太平天国の乱(1851年~64年)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結びます。
天津条約の主な内容は、
1) 外国公使の北京駐在
2) キリスト教の布教の自由
3) 漢口など10港の開港
4) 外国人の中国内地での旅行の自由
5) 英仏への計600万両の賠償金の支払い
以上を清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていました。

 1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現し、英仏艦隊は白河を遡って天津へ進もうとしますが、白河河口には障礙物が施されており、障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退きます。

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破壊の惨状を今に伝える円明園

 この様な事態に対し英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領しました。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めますが、交渉が決裂すると咸豊帝(在位1850年~60年)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行います。

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在りし日の円明園

 円明園は、北京の北西約10kmの所にあった離宮で、イタリア人のカスティリオーネが設計したヴェルサイユ宮殿を模したバロック式の宮殿・庭園もあり、歴代の皇帝のコレクションである金銀財宝・書画骨董や貴重な書物があったが、英仏連合軍は円明園に侵入して略奪・破壊の限りを尽くし、火を放った。そのため美しい円明園は廃墟と化してしまいます。

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北京条約主文

 清は屈服し、ロシアの調停によって1860年10月に英仏両国との間に北京条約を締結します。
北京条約は天津条約の批准交換と追加条約として締結され、従って天津条約の外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・外国人の中国内地での旅行の自由はそのまま認められ、開港場については天津が加えられて11港となった上、香港の対岸の九龍半島南部をイギリスに割譲することが追加され、賠償金も800万両となり、アヘン貿易も公認されました。

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ロシアが獲得した沿海州

 ロシアはこの北京条約を調停した代償として、イギリス・フランスとは別に清と北京条約を結び、ウスリー江以東の地(沿海州)を獲得します。

 この北京条約の結果、清はますます諸外国から政治・経済上の圧迫を受けるようになり、大量の外国商品の流入によって国内の産業や社会は深刻な影響を受けるようになります。
ロシアは、清朝が太平天国の乱やアロー戦争に苦戦している状況に乗じて黒竜江(アムール川)の地と沿海州を奪い中国への進出を図ります。

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ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング(Витус Ионассен Беринг,g, 1681年8月 - 1741年12月19日])

 ロシアは、17世紀前半に太平洋岸に達すると南下して黒竜江方面に進出して清と衝突、ネルチンスク条約(1689年)によって一時黒竜江方面から退きますが、その後ピョートル1世(在位1682年~1725年)の命によって始まったベーリング(1681年~1741年)の探検後カムチャッカ半島からベーリング海峡方面、さらにアラスカにも進出し、又エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)の使節ラクスマンは根室に来航して(1792年)日本に通商を求めるなど、ロシアは東方への関心を強めて行きました。

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ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский、1809年8月23日 - 1881年11月30日)

 ムラヴィヨフ(1809年~81年)は、ニコライ1世によって東シベリア総督に任命されると(1847年)、黒竜江の重要性に着目し、クリミア戦争(1853年~56年)中に黒竜江地域に進出しました。
ムラヴィヨフは、清朝が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(1856年~60年)苦戦している時、1858年にアイグン(愛琿)条約を結んで黒竜江(アムール川)以北の地の領有と黒竜江とその支流である松花江の航行権などを認めさせています。

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アイグン(愛琿)条約によってロシアが清国より獲得した地域

 更に1860年には清と英仏間のアロー戦争の講和を仲介した代償として、英仏とは別に北京条約を結んでウスリー江以東の地(沿海州)を獲得し、ウラジヴォストーク(東方を支配せよの意味)の軍港を建設し、以後アジア・太平洋進出の拠点とし、19世紀に入るとインドへの通商路・綿花の生産地・豊富な金の産地であった中央アジアに着目し、進出を図る様になります。

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19世紀初頭のウズベグ3ハン国

 当時、中央アジアにはティムール帝国を滅ぼしたウズベク族が建てたブハラ(ボハラ)・ハン国(1505年~1920年)・ヒヴァ・ハン国(1512年~1920年)・コーカンド・ハン国(1710年~1876年)の3ハン国が分立していましたが、ロシアの前に相次いで屈服し、ブハラ・ハン国は1868年に、ヒヴァ・ハン国は1873年にロシアの保護国となり、コーカンド・ハン国は1876年にロシアに併合されます。

 1862年に新疆でイスラム教徒(ウイグル人)の反乱が起こると、ロシアは反乱に乗じて中央アジアのイリ地方に出兵・占領し(イリ事件、1871年~81年)、反乱は清軍によって1877年に鎮圧されましたが、ロシアはイリ地方から撤収せず、清はイリ地方の返還を求め、翌年からロシアと清との間で交渉が続き、1881年にイリ条約が結ばれ、ロシアは占領したイリ地方の東部を返還するに留まり、清はロシアに賠償金を支払い、その上イリ以西の広大な領土を失いました。

ジョークは如何?

「ソ連共産党が70年かけてできなかったのに、エリツィン
 が7年でなしとげた事はなにか?」
「社会主義のすばらしさを国民に認識させたこと」


続く・・・

2017/04/11

歴史を歩く155

36東アジアの激動②

1アヘン戦争②

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阿片倉庫

清朝はアヘンの吸飲が全国に広まる中で、早くからアヘンの吸飲や密輸に対する禁令を出しおり、主な禁令を挙げれば、アヘン輸入の禁止(1796年)・アヘンの販売厳禁(1813年)・ケシの栽培とアヘンの製造の禁止(1823年)・アヘン輸入の厳禁(1831年)・英船のアヘン密売禁止(1834年)等が有りますが、このように度々禁令が出ている事実は、これらの諸禁令が守られていないことを意味し、禁令下にもかかわらずアヘンの密輸入・密売買は公然と行われ、その輸入量は年とともに増加し、1820年頃は約1万箱(1箱は100斤、約60kg)であったのが、1830年頃は3万箱を超え、1832~33年には4万箱を超えていました。

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阿片の吸引

 1830年代に入ると清朝にとってアヘンの問題はますます深刻になってきます。
大量の銀流出による財政問題だけでなく、アヘンの吸飲が官僚や軍隊にも広がりその腐敗・質の低下を招き、又犯罪の増加等治安にとっても大きな問題となりました。

 厳禁論と弛緩論の間で揺れていた道光帝(在位1821年~50年)は、結局厳禁論に従ってアヘンの吸飲には死刑をもって臨むこととし、密輸を根絶するために厳禁論を上奏した林則徐を欽差大臣に任命し(1838年)、広州に派遣してアヘンの取り締まりに従事させます。

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林 則徐(1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))

 林則徐(1785年~1850年)は、福建省に生まれ、進士に合格し(1811年)、地方官の要職を歴任して湖広総督となり(1837年)、道光帝にアヘン厳禁論を上奏し、自分の管内の湖北・湖南省でアヘンの厳重な取り締まりを行って功績をあげました。
このため1838年に欽差大臣(清代の臨時特設の大官、皇帝が臨時の権限を与え内乱の討伐や対外交渉にあたらせた)・両江総督に任命され、1839年初めに広州に着任しました。

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林則徐によって処分される阿片

 林則徐は広州に着任すると、アヘンの吸飲・販売を厳禁し、イギリス商人からアヘン約2万箱を没収し、これに石灰をかけ海水に浸して廃棄処分にし(1839年4月)、さらにイギリスとの貿易を禁止する強硬策をとりました。
これに対してイギリスは、アヘンを没収・破棄されたことを口実に自由貿易の実現を画策し、世論を背景に武力干渉にふみきり、アヘン戦争(1840年~42年)が始まります。

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1932年議員時代のウィリアム・ユワート・グラッドストン

 イギリス議会で戦費支出が討議されたとき、下院で若き日のグラッドストーン(1809年~98年)が「これほど不正な、恥さらしな戦争はかって聞いたことがない。大英帝国の国旗ユニオン・ジャックは、かっては正義の味方、圧制の敵であり、民族の権利、公正な商業のために戦ってきたのに、いまやあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられることになった。国旗の名誉はけがされた。」と反対演説を行いましが、戦費支出は賛成271票・反対262票で可決されます。

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阿片戦争・イギリス艦隊の砲撃を受ける清国軍

 1840年6月、軍艦16隻・輸送船27隻・陸兵4000人から成るイギリス軍は広州の沖合に集結しますが、林則徐が広州港の防備を厳重に固めていたため、北上し舟山島(寧波沖)を占領し、8月には華北に出現して大沽・天津を脅かしました。
この情勢に驚いた道光帝は林則徐を罷免し(1840年9月)広州で講和交渉を行い、仮条約が結ばれますが(1841年1月)、清の皇帝とイギリス政府はともにこれを拒否し、1841年2月、広州で戦闘が再開されました。

 1841年5月、イギリス軍は広州に激しい砲撃を加え、上陸・占領し、清軍が広州で降伏した直後、広州北郊の三元里の住民が平英団と名乗る自衛団を組織してイギリス軍を包囲攻撃し、この出来事は平英団事件と呼ばれ、その後の民族運動に大きな影響を与えました。

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1842年7月、阿片戦争中、最大の激戦となった鎮江の戦い

 広州を陥れたイギリス軍は、その後北上し、10月までには厦門・寧波を占領、翌1842年5月には軍艦25隻と陸兵1万人から成る大艦隊で上海を占領し、さらに南京に迫り、南京陥落を目前にして清は降伏し、1842年8月29日に南京条約が結ばれます。

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南京条約批准

 南京条約で、清国は広州・福州・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の5港の開港、公行の廃止、香港の割譲、賠償金1200万両の支払い、両国の国交は対等を原則とすることなどを認めましたが、アヘン貿易については何の規定もなく、事実上合法化されたのです。

 翌年、南京条約が批准されると、これに基づいて清はイギリスとの間に虎門塞追加条約(1843年10月)を結びますが、これは領事裁判権等の治外法権や最恵国待遇などを認め、関税自主権を失う等の不平等条約で、これを見たアメリカは望厦条約を(1844年7月)、フランスは黄埔条約を結んで(1844年10月)、イギリスとほぼ同じような権利を認めさせました。

ジョークは如何?

クリントン「あなたの国ではコンピュータというものを使っていますか?」
金正日「わが国の情報技術はアメリカより優れていますよ?」
クリントン「とてもそうには思えませんが?」
金正日「わが国では投票用紙の集計にコンピュータを利用しています。だから100%正確ですよ。」


続く・・・

2017/04/11

歴史を歩く154

36東アジアの激動

1アヘン戦争

 康煕・雍正・乾隆の3代130余年(1661年~1795年)に最盛期を迎えた清朝も乾隆帝(在位1735年~95年)の晩年には政治の綱紀も乱れ、白蓮教徒の乱などがおこり、衰退のきざしが見えてきました。

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白蓮教徒の乱

 白蓮教徒の乱(1796年~1804年)は、弥勒下生(みろくげしょう)信仰(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)の秘密結社を中心とする農民反乱で、湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省に広がり、反乱は9年に及び、清朝はやっと鎮圧に成功しますが、その鎮圧には清の正規軍よりも民間の義勇軍である郷勇が活躍し、ここにも清朝の衰退ぶりが現れています。

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ケシの花

 その頃から清朝を悩ませたもう一つの大問題がアヘン問題でした。
アヘンはケシの未熟な果実の外皮を傷つけ、分泌する乳液を採取して乾燥させて作る麻薬ですが、中国では薬用としても知られ、康煕帝は薬用アヘンの輸入を認めていました。
特に台湾ではマラリアの特効薬として用いられていた為、オランダ人によって台湾から中国に伝わると、タバコのように吸飲する風習が広まります。

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阿片堀

 アヘンを吸飲すると幻想的な恍惚状態に陥り、現世の憂さや苦しみを忘れさせてくれますが、一度吸い始めるとやめることは難しく、やがて常習の吸飲者となり、それはアヘン中毒の症状である、頭痛・めまいに始まり、最後は精神に異常をきたし、廃疾者に成り、また禁断症状が激しく、ひとたびアヘンがきれるともだえ苦しんでのたうちまわる恐ろしい麻薬です。

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18世紀の広州

 18世紀に華南でアヘン吸飲者の数が増えると、密売人の活動が活発となり、アヘンの密貿易が盛んとなりました。
特にイギリス商人によるインド産アヘンの密輸入が急増し、そのため、それまでほぼ華南に限られていたアヘンの吸飲がたちまち華中から華北に及び、全国的に流行するようになり、又それまでの下層民から上流階級の人々にも広まっていったのです。

 清は、乾隆帝時代の1757年以後、外国貿易を広州一港に限定しました。
この頃、広州での対中国貿易をほぼ独占していたのがイギリスで、当時のイギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、ティータイムが一般化し、茶の需要が激増していた為、イギリス東インド会社は大量の茶を中国から輸入し、そして毛織物やインド産の綿織物を輸出したものの、その額はわずかで、対中国貿易はイギリスの大幅な輸入超過となり、イギリスはその差額を大量の銀で支払っていました。

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インドの阿片製造工場

 そこで東インド会社は、このような不利な対中国貿易を打開するためにアヘンに目をつけます。
東インド会社はインドの農民にケシを栽培させてアヘンを作り、これを中国に密輸するアヘン貿易に進出するようになったのです(1773年)。

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イギリスの三角貿易

 以後イギリスは、中国の茶をイギリス本国へ、イギリス本国の綿織物をインドへ、インド産のアヘンを中国へ運ぶ三角貿易を行い、中国でのアヘンの流行・アヘン輸入額の増大とともに莫大な利益をあげるようになります。

 この間、イギリス本国では産業革命の進展にともない、自由貿易を求める気運が高まり、清朝の貿易港を広州一港に限定し、それを公行(広州での外国貿易を独占していた特許商人の組合、広東十三行と通称される)が独占する極端な制限貿易に対する不満が強まりました。

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初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー
(George Macartney, 1st Earl Macartney,1737年5月14日 - 1806年5月31日)


 そこでイギリスは、18世紀末にマカートニーを、19世紀初頭にはアマーストを中国に派遣して、その撤廃を交渉させますが不成功に終わっています。
マカートニー(1737年~1806年)は、イギリスの全権大使として1792年~94年に中国に派遣され、1793年に熱河で避暑中の乾隆帝に謁見を求め、その際、「三跪九叩頭」(3回ひざまずき、その都度地につくまで頭を下げ、計9回頭を下げる皇帝に対面するときの中国の儀礼の一つ)を要求されますが、 マカートニーはこれを拒み、結局片膝をついて皇帝の手に接吻するという妥協案で決着しましたが、貿易上の制限の撤廃・貿易港の拡大・対等な国交の樹立等の要求はすべて拒否されます。

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初代アマースト伯爵ウィリアム・ピット・アマースト
( William Pitt Amherst, 1st Earl Amherst,1773年1月14日 - 1857年3月13日)


 アマースト(1773年~1875年)は、マカートニーの後を受けて対中国貿易の改善を求める全権大使として1816年に北京で嘉慶帝(在位1796年~1820年)に謁見を求めたものの、「三跪九叩頭」の礼を要求され、これを拒否したために退去させられます。

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極東の侵略は阿片の輸出から始められた

 こうした状況の中で、イギリス本国では1834年に東インド会社の対中国貿易独占権が廃止された結果、イギリス商人は誰でも自由に中国貿易に従事することが出来るようになりました。
彼らはインド産のアヘンを中国に持ち込めば、茶をはじめとする中国の産物と多額の銀を手に入れることが可能でした。
そのため中国へのアヘン流入が激増し、それまで中国に流入していた銀が逆に国外へ大量に流出する事に成り、銀の海外への大量流出による銀価の高騰は農民の生活を圧迫するようになります。

 清の税制である地丁銀は銀納でしたが、農民が実際に手にするのは銅銭なので、納税にあたっては銅銭を銀に換えて税を納めました。
そのため1830年代に銀の価格が2倍に暴騰すると農民の納める税額も2倍となり、農民の生活を圧迫しました。

ジョークは如何?

毛沢東「最近、東南アジアやインドへの亡命者が増えて困ってます」
スターリン「うちも逃亡者を射殺するなど強化しています」
チョイバルサン「その点、亡命者ゼロです」
毛沢東・スターリン「凄いな」

チョイバルサン「周りがソと中国ですから亡命なんてしませんよ」

チョイバルサン:モンゴルの指導者


続く・・・

2017/03/30

歴史を歩く153

35南アジア・東南アジアの植民地化④

4東南アジア大陸部の変動

阮3兄弟
阮3兄弟

 ヴェトナムでは、黎朝(1428年~1527年、1532年~1789年)の衰退に乗じて西山党の阮3兄弟が反乱を起こし(1773年)、黎朝の権臣である阮氏と鄭氏を滅ぼして西山朝(1778年~1802年)を開きます。
後期黎朝(1532年~1789年)のもとで事実上南ヴェトナムを支配していた阮氏一族は1777年に西山朝に滅ぼされ、この時、阮氏一族の中でただ一人阮福映(1762年~1820年)だけがハティエンに逃れ、フランス人宣教師ピニョー(1741年~99年)と出会い、一時タイに亡命した阮福映はタイの援助等によって1788年にサイゴン奪回に成功しました。

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ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー (Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)
ベトナム名百多禄(Pedro)

 ピニョーは1789年に武器弾薬・義勇兵を集めてサイゴンに戻り、以後西山朝と戦う阮福映を援助しました。
阮福映は、ピニョーの死後(1799年)、更に軍を北に進め、1802年にはハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、ヴェトナム全土を統一しました。

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嘉隆帝・Gia Long (在位: 1802年 - 1820年)

 阮福映は即位して阮朝(1802年~1945年)を開き、国号を安南から越南に改め、年号を嘉隆とし、都をユエに定めます。
清の皇帝から越南国王に封じられた(1804年)嘉隆帝(阮福映、在位1802年~20年)は、中央官制をはじめとする国内の諸制度に清朝の諸制度を採用し、道路・橋・運河の建設等に努め、対外的には西欧諸国に対して鎖国政策を推進しますが、フランス人宣教師ピニョーの功績を認め、フランス人を優遇し、キリスト教には寛大でした。

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明命帝・Minh Mạng(1791年5月25日 - 1841年1月20日)

 しかし、嘉隆帝の死後、父以上に中国文化の信奉者であった明命帝(在位1820年~41年)が即位して儒教を重んじた結果、ヴェトナム国内では反キリスト教の風潮が強まって行きます。

 明命帝は、フランス軍艦が宣教師を密かに上陸させた事件を発端にキリスト教を禁止し(1825年)、以後キリスト教に対する禁圧策が強化されるなかで教会の破壊や宣教師の処刑(1833年)も行われました。

 1857年にスペイン人宣教師が処刑されると、翌年フランスのナポレオン3世はスペインと共同で出兵し、1859年にはサイゴン(現在のホーチミン市)を占領し、1862年迄にコーチシナ(フランス人によるヴェトナム南部の呼称)の数省を占領され(仏越戦争、1858年~62年)、阮朝は、1862年にサイゴン条約を結び、コーチシナ東部3省とサイゴンのフランスへの割譲・キリスト教の布教の自由・サイゴン等3港の開港・メコン川の自由航行権等を認めたのでした。

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仏越戦争

 コーチシナの支配権を握ったフランスは、カンボジアに対するヴェトナムの宗主権の継承を主張してカンボジアに保護条約を押しつけカンボジアを保護国とし(1863年)、更に1867年にはコーチシナ西部3省を領有し、コーチシナ全域を支配下に入れました(ナポレオン3世のインドシナ出兵、1858年~67年)。

 その後、ヴェトナム北部のトンキン地方に進出し、1873年と1882年の2度にわたってハノイを占領しますが、この時、劉永福は黒旗軍を率いてフランス軍に勇猛に抗戦します。

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劉永福(劉永福紀念像)

 劉永福(1837年~1917年)は、広東省の客家(はっか、よそ者の意味で広東・広西・江西・福建省等の山間僻地に住む移住民で差別された人々)出身で幼少の頃から流民として各地を転々とし、秘密結社の「天地会」(清朝を打倒して明朝を復興することを目的とした団体)に入いります。

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黒旗軍

 太平天国の乱にも参加して清軍に追われた劉永福は、ヴェトナムに逃れて阮朝に仕え、1867年に黒旗軍を編成し、1873年~85年にかけてフランス軍と戦い、阮朝がフランスとユエ条約を結ぶと孤立化して帰国しています(1885年)。

 フランスは、1883年にはユエを攻撃して占領し、ユエ条約が結ばれました。
ユエ条約は1883年と1884年の2回結ばれており、1883年のユエ条約はフランス共和国総務長官の名をとってアルマン条約とも呼ばれ、アルマン条約はヴェトナムをフランスの保護国(外交・軍事等主権の一部を他国に完全に委任して安全の保障を他国から受けている国、内政面でも多くの干渉を受け植民地に近い場合が多い)とする仮条約であり、1884年のユエ条約は保護国化の内容を確認した条約で、これによってヴェトナムはフランスの保護国(植民地)と成りました。

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フランスのベトナム支配変遷

 ヴェトナムの宗主国(他国の外交・軍事などの主権の一部を行使する権利(宗主権)を持つ国)であった清朝はフランスのヴェトナム保護国化に強く反対し、このためフランスは、1884年6月に国境付近で清仏両軍の衝突が起こると、これを開戦の口実とし、海軍で台湾・福州を攻撃した為、清もフランスに宣戦を布告し(1884年8月)、清仏戦争(1884年~85年)が始まります。



 清は台湾をフランス海軍に封鎖され、澎湖島を占領されたものの、広西から進出した清軍は善戦してしばしばフランス軍を撃破します。
イギリスが両国の調停に乗り出し1885年6月に天津条約が結ばれ、清はヴェトナムに対する宗主権を放棄してフランスの保護国化を承認しました。

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トンキン湾を占領したフランス軍

 清仏戦争から2年後の1887年10月に、コーチシナ(南部ヴェトナム)・アンナン(中部ヴェトナム)・トンキン(北部ヴェトナム)とカンボジアの4地域を統合したインドシナ連邦(フランス領インドシナ)が成立し、ハノイに総督府が置かれ、更にフランスは1899年にはラオスを保護国化し、これをインドシナ連邦に編入します。

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ビルマ最後の王朝、コンバウン朝のティーボー王と王妃スーパヤーラッ

 ビルマ(ミャンマー)では、18世紀中頃に成立したビルマ最後の王朝であるコンバウン(アラウンパヤー)朝(1752年~1885年)が18世紀後半に全盛期を迎え、タイのアユタヤ朝を滅ぼし(1767年)、清のビルマ遠征軍を撃退し、その後、コンバウン朝が更に西方へ進出、インドのアッサム地方やアラカン(ベンガル地方の南東)に進出して、インドに於けるイギリス東インド会社領と国境を接するようになるとイギリスとの間で紛争が起こります。

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マハ・バンドゥーラ司令官(1782‐1825)・第1次ビルマ戦争時に、ビルマ軍を指揮した英雄

 イギリスは第1回ビルマ(ミャンマー)戦争(1824年~26年)でアラカン地方を奪い、第2回ビルマ(ミャンマー)戦争(1852年~53年)ではラングーン(現ヤンゴン)を中心とする下ビルマを併合し、その後ビルマがフランスに接近する機会を捉えて、第3回ビルマ(ミャンマー)戦争(1885年~86年)によってコンバウン朝を滅ぼし、全ビルマを征服してこれをインド帝国に併合しました(1886)。

 こうして19世紀末迄には、東南アジアの殆どの地域はヨーロッパ諸国の植民地となり、独立を保つ事が出来たのはイギリスとフランスの緩衝地帯として消極的な独立を保ったタイのみでした。

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ラーマ4世

 タイでは、18世紀後半に成立したチャクリ(バンコク)朝の第4代国王ラーマ4世(在位1851年~68年)が西欧化による近代化を進める一方、対外的には西方からのイギリス、東からのフランス勢力の進出に対して勢力均衡策を図り、イギリスとの間に不平等条約である通商条約を締結した(1855年)のをはじめ、フランス・アメリカ・プロイセン等の欧米諸国とも不平等条約を結び、独立維持に努めていました。

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ラーマ5世

 タイ史上最も傑出した国王とされるラーマ5世(チュラロンコーン、在位1868年~1910年)は15歳で即位し、父ラーマ4世の遺志を継いでタイの独立維持と西欧化による近代化に努め、近代的な行政・司法・徴税制度の確立、郵便・電信事業の導入、鉄道の建設、陸海軍の近代化等を行い、対外的にはイギリス・フランスの要求に屈し、治外法権の一部撤廃と引き換えに、現国境以東をフランスに、現国境以南をイギリスに割譲しながらも独立を維持し続けたのです。

ジョークは如何?

食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け

続く・・・