2017/06/11

歴史を歩く163

37帝国主義の成立と列強の国情③

3フランス

fig10.png
アルザス・ロレーヌの位置

 フランスは、普仏戦争(1870年~71年)に敗れてアルザス・ロレーヌをドイツに割譲したために工業生産の発展が鈍化し、1870年代にはアメリカ・ドイツに追い抜かれてその生産力は第4位に後退しました。
又、工業では小企業が乱立し、農業でも小経営が多かった為、国内には有利な資本の投下先が少なく、結果として国内の資本はもっぱら有利な海外投資に向けられ、フランスは「ヨーロッパの高利貸し」と呼ばれ、特に露仏同盟の成立(1891年~94年)後はロシアへの投資が増加しました。

フランス植民地
アフリカの列強植民地

 フランスは、対外的には1880年代以後チュニジアやインドシナを獲得し、イギリスに次ぐ広大な植民地を領有し、国内では、1875年に第三共和政憲法が成立し、第三共和政の基礎が確立しましが、小党分立の傾向が強く、政情はなお不安定でした。

 フランスでは、普仏戦争の敗北後対独復讐心が強まり、ドイツに対する反感から軍部や右翼が台頭し、第三共和政はブーランジェ事件(1887年~89年)やドレフュス事件(1894年~99年)によって重大な危機に直面しました。

Georges_Boulanger_Nadar_convert_20170629211131.jpg
ジョルジュ・エルネス・ジャン=マリー・ブーランジェ(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger、1837年4月29日レンヌ - 1891年9月30日)

ブーランジェ事件
ブーランジェ(1837年~91年)は、普仏戦争に従軍し、師団長を経て陸相に就任します(1886年~87年)。
彼は対独強硬策を唱え、「復讐将軍」・「ビスマルクを尻込みさせた男」と渾名されて愛国主義者・右翼・一般民衆の人心を集めます。
王党派やボナパルト派はブーランジェを引き入れて共和政を打倒し、軍部独裁政権の樹立を企てました。

DCmbHIOVoAA7dw9_convert_20170629211321.jpg
ブーランジェ事件の風刺画

 ブーランジェが、パリの補欠選挙で大勝すると(1889年1月)、興奮したパリの民衆は街頭に犇めき、クーデターの危機は目前に迫ったかにみえたが、ブーランジェが土壇場で実行を躊躇い、クーデターは未遂に終わります。
これに驚いた政府が不穏な団体を解散させ、ブーランジェ派の指導者を起訴するとブーランジェはベルギーに亡命し、欠席裁判で終身禁固刑の判決を受けると数ヶ月後に自殺します。

20d21362_convert_20170629211533.png
階級を剥奪されるドレフュス大尉

ドレフュス事件
 1894年夏、パリのドイツ大使館から一通の手紙が盗み出されてフランス陸軍省の手に落ちました。その中にはフランス陸軍の機密文書の名が列記されており、フランス陸軍省の中にスパイの存在が明らかになり、捜査が行われてユダヤ人の砲兵大尉ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕され(1894年)、軍法会議に処されます。

 ドレフュスは無罪を主張しますが、ユダヤ人ドレフュスを早く処分せよと云う世論の高まりの中で、陸軍は事件の処理を急ぎ、ドレフュスを有罪として終身禁固刑を言い渡し(1894年12月)、官位を剥奪して南アメリカのフランス領ギアナ沖の悪魔島(ここへ送られたが最後、生きて帰れないことからこう呼ばれた)へ送ります。

 1896年、陸軍省情報部長の調査によって真犯人はエステラジー少佐であることが明らかになりますが、陸軍は体面を保つ為に揉み消しを図りますが、真犯人が別にいる事が知れると再審を求める世論が、巻き起こりますが、軍部は威信を保つ為に再審を拒否して反ユダヤ主義や拝外主義を煽り、エステラジーを形式的に軍法会議にかけて無罪としました。

Dreyfus-rennes2_convert_20170629212741.jpg
軍法会議のドレフュス

 エステラジー裁判から2日後(1898年1月13日)、フランス自然主義の代表的な作家であるゾラ(1840年~1902年)は「私は弾劾する」と名付けられた大統領宛の公開質問状を新聞に発表し、軍部の不正・横暴を攻撃してドレフュス擁護の論陣を展開しました。

 ドレフュスの再審を要求する運動は増々激しくなり、その一方で再審反対運動も激しさを増し、その結果、再審派と反対派の対立は、ドレフュス個人の有罪・無罪の問題を越えて共和政の擁護と共和政打倒の戦いとなり、国論を二分する政治問題に発展しました。
再審要求運動が更に高まる中でようやく再審が行われますが、軍法会議はドレフュスに再び有罪判決を下しますが、ドレフュスは大統領特赦で釈放され(1999年)、その後も復権運動が行われ、再再審で終に無罪と復権が確認されました(1906年)。

 ドレフュス事件は共和政の存続を脅かす出来事でしたが、この出来事によってかえって共和派の団結が強まり、又ドレフュス事件を機にユダヤ人のシオニズム(ユダヤ人の国家をパレスチナに建てようとする運動)が始まりました。

Pierre_Waldeck-Rousseau_by_Nadar.jpg
ピエール・ワルデック=ルソー(Pierre Waldeck-Rousseau, 1846年12月2日 - 1904年8月10日)

 1899年に成立したヴァルデック・ルソー内閣(1899年~1902年)は「共和政防衛内閣」と呼ばれ、社会主義者も含めた全共和主義派の支持の下で、軍部・カトリック教会・右翼の攻撃から共和政を守ることを目的に組織され、政治改革・社会改革に取り組みました。

Entente_Cordiale_dancing_convert_20170629213559.jpg
英仏協商の風刺画

 共和政防衛内閣の成立によって第三共和政は安定しましたが、フランス人の間にはドイツに対する警戒心が依然として強く、露仏同盟(1891年~94年)や英仏協商(1904年)を結んでドイツに対抗しました。

 ドレフュス事件でドレフュス擁護に活躍したジョレス(1859年~1914年)は社会党(統一社会党)の結成に大きな役割を果たし、社会党(統一社会党)はフランスの社会主義政党や団体の連合組織として1905年に結成されます。
又、フランスの労働運動では、議会主義を否定して労働組合の直接行動・ゼネストによって革命を目ざすサンディカリズムが19世紀末から盛んになって行きます。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」

続く・・・

2017/06/08

歴史を歩く162

37帝国主義の成立と列強の国情②

2イギリス

No08p16_disraeli-e02-disraeli_1857_convert_20170609222007.jpg
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, 1804年12月21日 - 1881年4月19日)肖像画は1857年当時

 帝国主義と云う言葉は、1870年代後半に、保守党首相ディズレーリ(在任1868年、1874年~80年)が、その頃高まりつつあった小英国主義(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃し、植民地支配を強化し、帝国の拡張・団結を主張したのが始まりです。

disraeli-victoria.jpg
ヴィクトリア女王にインド皇帝の王冠を渡しているのはディズレーリ首相


 ディズレーリは、スエズ運河の株式買収(1875年)やインド帝国成立(1877年)、更に露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止する一方で、キプロス島を獲得する(1878年)等帝国主義政策を推進しました。

106109_convert_20170609223244.jpg
ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone 1809年12月29日 - 1898年5月19日)

 これに対して自由党の首相グラッドストーンは平和外交を主張し、アイルランド問題等の内政に力を注ぎました。

 ディズレーリと共に帝国主義者として知られるジョゼフ・チェンバレン(1836年~1914年)は、螺子製造業で財を成して政界に進出、自由党急進派として活躍し、グラッドストーン内閣にも2度入閣しましたが、アイルランド自治法案に反対して自由党を離れ、自由統一党を結成します(1866年)。
その後チェンバレンは、第3次ソールズベリ保守党内閣(1895年~1902年)に植民相として入閣し、国内の社会問題の解決には植民地の開発が必要であると主張し、アフリカでの帝国主義政策を推進して南ア戦争(南アフリカ戦争、ブーア戦争、1899年~1902年)を引き起こしました。

Joseph_chamberlain_convert_20170609223633.png
植民地省の大臣デスクに座るチェンバレン

 又チェンバレンの主張によって、1877年には植民地会議が開催され、本国・自治領・インド等の代表で構成された会議は、本国と自治領・植民地間の結合・協力関係の強化を目的とし、イギリス帝国共通の防衛・経済等の問題を討議しました。
植民地会議はその後4回開催され、1907年にはイギリス帝国会議と改称されます。

713.jpg
ウェッブ夫妻

 この間、国内では労働運動・社会主義運動が盛んとなり、フェビアン協会(1884年)や独立労働党(1893年)等が設立されます。
1884年に設立されたフェビアン協会は、革命を否定して漸進的な社会改革を主張する社会主義者の団体で、ウェッブ夫妻(夫シドニー(1859年~1947年)は後にマクドナルド労働党内閣に入閣した)や劇作家として有名なバーナード・ショー(1856年~1950年)等が活躍しました。
尚フェビアンの名は、戦わず・挑まず・敵の消耗を待つ戦術でハンニバル軍を破った古代ローマの将軍の名前ファビウスの名に因んでいます。

ケア・ハーディ_convert_20170609224309
ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie、1856年8月15日 - 1915年9月26日)

 ケア・ハーディ(1856年~1915年)が設立した独立労働党も、労働者の議会進出と社会主義を目的とする漸進的な改革を目ざしました。
1900年には、フェビアン協会・独立労働党・社会民主連盟(マルクス主義)の3つの社会主義団体と65の労働組合の代表によって、その連合体である労働代表委員会が結成されます。

 労働代表委員会は、その後既存政党(保守党や自由党)から独立した労働者独自の政党を目ざし、1906年に労働党と改称しました。
労働党は、社会民主主義(共産主義の革命理論に反対し、議会主義による社会主義の実現を説く思想)の立場に立って漸進的な改革で社会主義の実現をはかる穏健な方針でした。

800px-Herbert_Henry_Asquith_convert_20170609225355.jpg
初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith, 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)

 その前年に成立していた自由党内閣は、労働党の協力を得て老齢年金法や国民保険法等の社会改革を実現を画策しますが、保守党勢力の強い上院が改革に反対した結果、1908年に成立したアスキス自由党内閣(1908年~16年)は、1911年に議会法(議院法)を成立させました。

David_Lloyd_George_convert_20170609225640.jpg
初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デビッド・ロイド・ジョージ(英語: David Lloyd George, 1st Earl Lloyd George of Dwyfor, OM, PC、1863年1月17日 - 1945年3月26日)

 アスキス内閣の蔵相であったロイド・ジョージ(1863年~1945年、1916年~22年に首相を務める)は、ドイツに対抗して海軍の増強が叫ばれると、土地所得への新課税・所得税と相続税の増額等を含む予算案を議会に提出しますが、この予算案が上院で否決された為(1909年)、下院を解散して総選挙で勝利し、世論を背景に上院を屈服させて議会法を成立させました。
議会法の内容は、下院を3回通過した法案は上院の同意なく法律となる事、又上院は予算案を否決する事ができないこと等で、この法律によって下院の優越が確立しました。
日本国憲法の衆議院の優越はこの議会法の精神を取り入れたものです。

Irish_potato_famine_Bridget_O_Donnel_convert_20170609230838.jpg
19世紀後半、アイルランドを襲ったジャガイモ飢饉

 19世紀後半のイギリス内政最大の問題の1つであったアイルランド自治法案は、1886年と1893年の2度グラッドストーン内閣によって提出されたが、いずれも否決されていました。

 20世紀に入るとシン・フェイン党を中心にアイルランド独立運動が激しさを増します。
シン・フェイン党(シン・フェインは「われわれ自身で」の意味)は、1905年に結成されたアイルランドの政党で、アイルランドの独立を主張し、急進的な反英路線を主張します。

 自由党内閣は、1912年に三度アイルランド自治法案を議会に提出、翌1913年には下院で可決されましたが上院では否決され、1914年にやっと下院・上院で可決されて成立しました。
しかし、イギリス人が多数を占める北アイルランド(アルスター地方、17世紀にイングランド・スコットランド人の新教徒が植民)は自治法案に反対し、シン・フェイン党との対立が激化し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由にアイルランド自治法案の実施を延期します。

ジョークは如何?

アル中のスコットランド人が尻のポケットにウィスキーの瓶を入れて車道を千鳥足。
当然のごとく、車にはねられ道端までとばされた。
幸い命に別状はなかったものの尻のあたりが、なにやらぬれている模様。
その男、手で触ってみて、
「ああ神様、どうかこれが血でありますように」


続く・・・

2017/06/02

歴史を歩く161

37帝国主義の成立と列強の国情

1帝国主義

lenin_convert_20170602175524.jpg
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年4月22日 – 1924年1月21日)
本名、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(Влади́мир Ильи́ч Улья́нов)


 19世紀末から20世紀初頭にかけて世界は帝国主義の時代に入って行きました。
ロシア革命の指導者レーニンはその著『帝国主義論(資本主義の最高段階としての帝国主義)』の中で「帝国主義とは、独占体と金融資本の支配が成立していて、資本輸出が著しく重要性を増し、国際的なトラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国による世界の全領土の分割が完了したという発達段階に達した資本主義のことである。」と述べています。

america-dokusen_convert_20170602180042.jpg
アメリカの独占資本に対する風刺画

 19世紀後半には先進資本主義国、特にアメリカ・ドイツ等で技術革新が進み、電力や石油を動力源として、鉄鋼・電機・化学等の重化学工業が急速に発展しましたが、これを第2次産業革命と呼びます。

fefc131efbdd389a4607ddc2234a1f19097d639d98ac5a40a972be0eb5750e1b_convert_20170602180310.jpg
独占3形態

 産業革命によって成立した資本主義社会では、自由競争に勝ち残った少数の大企業が相互の競争を避けるために企業の集中を進め、カルテル・トラスト・コンツェルン等の独占の形態が現れ、利潤の独占を図る様に成りました。

 この様な独占資本(独占企業)が、銀行資本と結合して金融資本が形成され、アメリカ・ドイツを初めとする主な資本主義諸国は独占資本主義の段階に入って行ったのです。
金融資本は、国内だけでは利潤を得る事が難しくなると、国内の余剰資本のより有利な投下先を求めて国外へ進出する様に成りました。

20150409162927fe6_convert_20170602180624.gif

 こうして先進資本主義諸国は国内の余剰資本を原料・労働力・市場を持つ植民地等に投資する事で(国外投資、資本輸出)より大きな利潤を得ようとし、欧米列強は植民地や従属国を求めてアジア・アフリカ等への進出を図ります。
この様な段階に入った資本主義を帝国主義と呼びます。
9b25534b_convert_20170602180925.jpg
「列強クラブ」これまですべて白人で初めて有色人種の会員を迎えることになるが、この風刺画を見ると、列強クラブからの視線、日本に対する驚きと嘲笑する心を見抜くことができる。

 その為帝国主義の時代には植民地の獲得等を巡って国際的な対立が激化し、イギリスやフランス等の先進資本主義国が早くから海外に進出して広大な植民地を領有したのに対し、遅れて帝国主義の段階に入ったドイツ・ロシア・日本等は遅れて植民地の獲得に乗り出し、植民地の再分割を要求します。この為帝国主義列強間で対立が激化し、第一次世界大戦の原因と成りました。

kinoshita08_convert_20170602182406.jpg

 帝国主義列強の国内では、労働運動が盛んとなり、帝国主義や軍国主義に反対する社会主義運動がおこり、社会主義政党が成立します。
一方、帝国主義列強によって植民地とされ、若しくは従属させられた地域では激しい抵抗と解放のta為の闘争が展開され、同時に旧体制に対する変革の動きも広がって行きました。

ジョークは如何?

ドイツの鉄血宰相ビスマルクは、フランスのシャンパンが好きだった。
あるとき皇帝から「君は愛国者だろう。何故ドイツの物を飲まないのかね?」
と訊かれた。ビスマルクが答えて言うには
「陛下。恐れながら愛国心と舌は別物でございます」


続く・・・

2017/05/17

歴史を歩く160

36東アジアの激動⑥

7日清戦争

崔済愚_convert_20170529211243
崔済愚(1824年~64年)

 朝鮮には、18世紀後半に中国からキリスト教が伝わり、天主教と呼ばれました。
李朝は天主教を禁止して弾圧を加えますが、社会不安を背景に天主教信者は次第に増加して行きます。
19世紀後半にキリスト教(天主教)に対抗する新しい宗教である東学が創始され、没落両班出身の崔済愚(1824年~64年)は、在来の民間信仰を基に東洋的な儒教・仏教・道教を融合して東学を創始しました(1860年頃)。
東学は西学に対する意味で、西学とはキリスト教・天主教を意味し、彼は欧米の侵略に対抗する「保国」と封建的な収奪に反対する「安民」を唱えました。

 この東学は、欧米諸国・日本の侵略と李朝の圧制下の社会不安の中で動揺する民衆の間に急速に広まって社会問題化した為、政府は民を惑わす者として崔済愚を処刑しますが、東学は崔済愚の処刑後も民衆の間に広まり、彼等は全琫準に率いられて全羅道を中心に決起しました。

CtWEkmMVYAAEvU7_convert_20170529211436.jpg
甲午農民戦争・群衆を前にした全琫準

 1894年2月、かねてから農民を搾取して悪名高かった郡守が水利税を滞納した貧農を極刑に処し、この出来事を発端にこの郡守の悪業に耐えかねた農民達が全琫準に率いられて郡庁を襲ってこれを占拠し、甲午農民戦争(東学党の乱、1894年)が始まりました。

Sabal_Tongmun_convert_20170529211806.jpg
甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文

 全琫準の檄文に応じて各地で悪政に苦しむ農民達が蜂起し、その中心となったのは東学信徒でした。農民軍は5月末に全州を占領し、更に漢城(ソウル)へ向かって進撃を試みますが、当時の李朝はこれを鎮圧する力は無く、清国軍の出兵を要請する一方で、全琫準が提訴していた改革案を全面的に受け入れて全州和約(不正官吏・不正両班の懲罰、奴婢文書の焼却、賎民がかぶる笠を外す事等が約束された)を結びます(1894年6月)。

PA120063_2_convert_20170529212033.jpg
全琫準1854年 - 1895年4月24日

 全琫準は、全州和約が結ばれると農民軍に解散を命じ、彼はこのことによって外国の軍隊が朝鮮に出兵して来る口実を除去しようと考えたのですが、全州和約が結ばれる迄に、既に清と日本は朝鮮に出兵しており、清朝は朝鮮から出兵を要請されると直ちにこれに応じ、天津条約(1885年)に従って朝鮮出兵を日本に通告し、朝鮮に出兵して牙山に上陸しました。
日本もこれに対抗して、清国から出兵の通告があった翌日に清国に出兵を通告して出兵し、漢城(ソウル)に兵を入城させます。

1_convert_20170529213025.jpg
景福宮

 清国は、日本軍との衝突を避けるために両国軍の即時撤兵を提案しましたが、日本は清国に朝鮮内政の共同改革を提案し、これが拒否されると、単独で朝鮮に内政改革案を突きつけ、期限迄に回答が無かった為、王宮(景福宮)を占領し、朝鮮に清国との宗属関係を破棄させ、清国軍の撤退を日本に一任させます(1894年7月23日)。

20120723002624039_convert_20170529213558.gif
豊島沖の海戦・日本海軍『浪速』の砲火により擊沈される清国海軍輸送船『高陞』

 その2日後、日本軍艦3隻は仁川西方の豊島沖の海戦で清国軍艦2隻を撃破し(7月25日)、又牙山の清国軍を潰走させて牙山を占領しました(7月29日)。
1894年8月1日、日清両国は宣戦を布告し、日清戦争(1894年8月~95年4月)が始まりました。
日本軍は、9月には平壌の戦いで清国陸軍を撃破し、退却する清国軍を追って更に北進、同月黄海海戦で清の北洋艦隊(李鴻章が創設した新式海軍)を撃破しました。


o0580030613391255165_convert_20170529215616.gif
黄海海戦

 北洋艦隊は当時としては、大型鋼製艦の定遠・鎮遠以下14隻、これに対して日本艦隊は12隻でしたが、日本艦隊は速力に優れ、重砲の数は清より少ないものの速射砲の数は圧倒的に多く、総合戦力では北洋艦隊を上回り、戦闘訓練の面でも勝っていました。
黄海海戦は5時間にわたって続き、日本艦隊の勝利に終わり、北洋艦隊は3隻が撃沈され、2隻が大破、これに対して日本艦隊は1隻の損耗も発生していません。

 威海衛湾_convert_20170529214902
北洋水師の要港であった威海衛湾

 平壌の戦いで勝利を治めた日本軍は、鴨緑江を渡って清国領内に入り、11月には遼東半島南部の旅順を陥落させ、翌年2月、日本海軍は北洋艦隊の根拠地である威海衛を占領し、北洋艦隊は降伏します。
1895年3月、下関で講和会議が始まり、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光、清国全権の李鴻章との間で下関条約が結ばれ、この下関条約によって、清は朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金2億両の支払い、日本の通商上の特権等を認めました。

 この間、全琫準は、1894年10月に再び蜂起します。
一時は10万以上の農民が全琫準の基に終結しますが、近代兵器を持つ朝鮮軍と日本軍が出動すると、農民軍は各地で敗走を重ね、全琫準も密告によって捕らえられ(1894年11月)、翌年ソウルで処刑されています。

ジョークは如何?

戦後まもなく、日本政府は食糧難によって
数百万人の餓死者が出るという統計を元に
アメリカに莫大な食糧援助を求めたが、
その何分の一かの輸入で別段死人も出なかった。

そのことをマッカーサーが詰問した。

マッカーサー「でたらめな数字を出すな!」

吉田茂「うちの統計がそんなに立派なら、戦争には負けてませんよ。」

続く・・・

2017/05/17

歴史を歩く159

36東アジアの激動⑥

5日本の変革

perry1_convert_20170523204526.jpg
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 – 1858年3月4日)

 1853年7月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー(1794年~1858年)が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。

Визит_Перри_в_1854_году_convert_20170523204715
黒船来航

 江戸幕府は、開国か攘夷かをめぐる激しい対立の中で、翌1854年に日米和親条約を結び、下田・箱館2港の開港や最恵国待遇の供与等を認め、 更に1858年の日米修好通商条約では箱館の他に神奈川・兵庫・新潟・長崎の開港、領事裁判権の承認、自由貿易の原則の確立、関税自主権の放棄等を認めた不平等条約に調印し、又オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を結んで開国を断行します。

MeijiJoukyou_convert_20170523205026.jpg
大政奉還

 これに対して尊皇攘夷運動や討幕運動がおこるなかで大政奉還が行われ、1868年の明治維新となり、天皇中心の明治新政府が樹立されます。
明治政府は政治・経済・軍事・教育等あらゆる分野の改革を実施して富国強兵を図り、西欧化による近代化を進め、対外的には欧米列強に対しては和親策を取ますが、近隣のアジア諸国に対しては強硬な態度を見せています。

80420115f574b23e945153d79aa8c672_convert_20170523205312.jpg
江華島事件

 1874年には、琉球の漁民が台湾に漂着し、台湾の原住民に殺されたことを口実に台湾に出兵し、1879年には沖縄県を設置して琉球を併合、翌1875年には江華島事件を機に朝鮮に迫って日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。

kenpou_convert_20170523205659.gif
大日本帝国憲法発布

 又北方ではロシアとの間に1875年に樺太・千島交換条約を結び、全樺太をロシア領・千島全島を日本領とします。

 この間、国内では自由民権運動が起こるとこれを抑える一方で、1881年の国会開設の詔によって1890年迄に国会を開設することを約束し、 1889年にドイツ帝国憲法を手本にした大日本帝国憲法を発布し、翌1890年に国会を開設しました。

6朝鮮の開国

20120120143514.gif

 李氏朝鮮(1392年~1910年)は、16世紀末に豊臣秀吉の侵入(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土が荒廃し、更に17世紀前半には清の侵入を受けてその属国と成りました(1637年)。
この間、党争は更に激化しましたが、18世紀の英祖(在位1724年~76年)・正祖(在位1777年~1800年)は党争を抑えることに努めた結果、党争は下火になりました。

0 0 1
洪景来の乱

 しかし、19世紀に入ると純祖・憲宗・哲宗(在位1849~63年)と年少の王が続き、実際の政治は外戚によって行われ、いわゆる勢道政治です。
こうした状況の中で没落官人の洪景来(1784年)は、政権から閉め出されて不満を持つ下級官僚と結び、窮乏した農民・流民・都市の貧民等を指導して反乱を起こします(洪景来の乱、1811年~12年)。農民軍が敗れる中で洪景来は戦死し、反乱は半年で鎮圧されましたが、李朝の官僚支配体制をゆるがす反乱となりました。

大院君_convert_20170523215348
興宣大院君(1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日)

 1863年、哲宗が急死し、彼には嗣子が居なかった為、王族の中から12歳の少年が選ばれて李朝第26代高宗(在位1863年~1907年)として即位し、実父の大院君(1820年~98年)が摂政となって以後10年間にわたって実権を握ります。
大院君は内政改革を推し進めると共に、キリスト教を弾圧し、フランス・アメリカの艦隊を撃退し、又明治政府からの国書の受け取りを拒否する等鎖国攘夷策を推進しました。

e0040579_135897_convert_20170523215903.jpg
閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)

 しかし、大院君は1773年に、権力欲が強く野心家であった閔妃(びんひ、高宗の妃、1851年~95年)とその一族によって国王親政の名目で引退させられ、以後閔妃自等が実権を握り、一族と共に政治を専断しました。Unyogunboat.jpg
雲揚 (砲艦)

 こうした状況の中で、1875年9月に江華島事件が起こります。
明治政府は、朝鮮の内紛に乗じて武力による威嚇をもって朝鮮に開国を迫ることを決定し、軍艦雲揚を釜山に派遣して示威を行わせます(1875年5月)。
1875年9月には再び軍艦雲揚を派遣し、雲揚は朝鮮西海岸を北上して江華島に達し、雲揚から降ろされたボートが江華島に接近したときに江華島の砲台から砲撃を受け、これに雲揚が応戦して江華島の砲台を破壊し、水兵を上陸させて民家や官衙を焼き払い、朝鮮兵30数名を戦死させました。
これが江華島事件です。

GanghwaTreaty_convert_20170523220818.jpg
日朝修好条規(江華条約)調印

 雲揚が朝鮮の許可なく領海を侵犯し、江華島の砲台を挑発して発砲させたことは明らかでしたが、明治政府は江華島事件を口実として朝鮮を武力で脅し、1876年2月に日朝修好条規(江華条約)を締結しました。
その主な内容は、朝鮮の自主独立、釜山・仁川・元山の開港、日本公使館・領事館の設置、日本人の領事裁判権を認める事等です。

 日本は欧米列強から押しつけられた不平等条約を朝鮮に強制し、朝鮮を開国させ、第1条に「朝鮮は自主の邦にして日本国と同等の権を保有せり」とありますが、この条文は朝鮮が清国の属国でないことを明らかにし、清国との宗属関係を否定し、将来日本が朝鮮を属邦とするための布石でした。

33fde220_convert_20170523221303.jpg
守旧派と開化派

 この時期の朝鮮では、守旧派と開化派との対立が強まっており、閔氏一族は当初開化的立場を取、軍制改革に着手し、日本から軍事顧問を招いて両班の子弟を中心に近代的な軍隊を創設、日本式の訓練を行いました。
これに対して旧軍隊の間には新式軍隊との差別待遇に対する反発が強まりました。

 当時、財政難に陥っていた李朝では軍隊への給与(米で支給)が遅配しており、やっと支給された1ヶ月分の米に砂やぬかが混じっていた事を発端に旧軍隊兵士の不満が爆発しました(1882年7月)。
この旧軍隊の暴動は、武器庫を襲って武装した旧軍隊の兵士に一般の貧民も加わり、大院君の煽動も加わって政府及び日本人に対する暴動に発展しました。
彼等は閔氏派要人や日本人を殺害し、日本大使館を焼き打ちし、大院君を擁立し、大院君は再び摂政の座について政権を掌握します。

Imogullan1_convert_20170523221631.jpg
壬午政変(壬午軍乱)日本公使館襲撃

 日本と清国は直ちに出兵し、特に大軍を送り込んだ清軍は大院君を捕らえて保定(北京南西の都市)へ送って監禁し、閔氏政権が復活しました。
これが壬午政変(壬午軍乱)で、この壬午政変によって清の朝鮮支配が強化され、日本勢力は朝鮮から後退せざるを得ませんでした。

 壬午政変後、閔氏は清国に依存して政権の維持を図り、この閔氏を中心とする守旧派は事大党と呼ばれて、これに対して日本は金玉均等の独立党(開化派)との結びつきを強めて行きました。

Kim_Ok-gyun.gif
金 玉均(김옥균、1851年2月23日 - 1894年3月28日)
 
 金玉均(1851年~94年)は、科挙試験文科に主席合格して官界に入り(1872年)、1881年には日本使節団に加わり、又翌1882年には壬午政変の謝罪の為に派遣された修信使節団員として来日しました。
彼は日本の目覚しい近代化・発展に強い刺激を受け、日本と結んで朝鮮の近代化と国政改革を図る事を考え、朴泳孝(1861年~1939年)等同士と共に独立党(開化派)を組織しました。

chshnp_convert_20170523222900.jpg
甲申政変

 しかし、独立党は、壬午政変後清国と結んだ閔氏一族の事大党政権の圧迫を受けて次第に劣勢に陥り、金玉均はクーデターによる政権奪取を決意し、清仏戦争での清の敗戦に乗じて日本の武力を借りてクーデターを起こし、事大党政権を倒して政権を奪取します。
それもつかの間、独立党の新政権は清軍の介入によって僅か3日で転覆し、金玉均は朴泳孝らとともに日本に亡命します。
これが甲申政変(甲申事変、1884年12月)です。

Mudred_of_Kim_Ok-kyun.jpg
洪鐘宇に殺害される金玉均

 日本に亡命した金玉均は日本政府によって小笠原・北海道へ移送され、最後は刺客に上海に誘い出されて暗殺されました。
1885年4月、甲申事変の処理に関する天津条約(日清天津条約)が結ばれ、日清両国は即時漢城(ソウル)から撤兵すること、将来朝鮮に出兵する場合は相互に通告すること等を約束しました。

ジョークは如何?

金正男が日本で捕まった。報告をうけて、金正日は言った。
「どの正男だ?」

※補足
影武者が多い

続く・・・