2017/03/14

歴史を歩く151

35南アジア・東南アジアの植民地化②

2インド大反乱とインド帝国の成立

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シパーヒー(セポイ)の反乱

 イギリスによるインド支配が進むにつれて、インドの伝統的な生活が破壊されるなかで、イギリス支配に対するインド人の不満と反感が広い階層に広まりました。
こうした状況を背景として1857年にインド初の民族的大反乱であるシパーヒー(セポイ)の反乱が勃発します。

 シパーヒー(セポイ)とはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵で、イギリス東インド会社は彼等を低賃金・低待遇で雇い、インド支配の道具としましたが、反乱は兵士だけのものではなかったので、近年はインド大反乱と呼ばれています。

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エンフィールド銃

 1857年はプラッシーの戦いから100周年に当たる年で、宗教的指導者の中にはイギリス滅亡の年であると予言する者もあり、インドは異常な熱気に包まれており、同年5月10日、デリー北方のメーラトのシパーヒー部隊が反乱を起こします。
反乱の発端は、東インド会社が新たに採用したエンフィールド銃で、この銃は弾丸を込める際に上質の紙で出来た弾薬包の端を口でかみ切る必要があったが、その弾薬包には銃身での摩擦を少なくするために牛と豚の油脂が塗られていました。

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シヴァ神と聖牛ナンディ

 牛はヒンドゥー教徒にとっては神聖な動物であり、豚はイスラム教徒にとっては不浄とされた動物で、このためシパーヒーはこの銃の受け取りと使用を拒否したのでした。
このような出来事は既に2月頃から各地の部隊で起きていたので、イギリスは弾薬包を手で破るように改めていたのですが、4月末にメーラトのシパーヒー連隊で90人中85人が弾薬包に手を触れることを拒否し、軍法会議で10年間の強制労働の刑に処せられ、5月9日に85人が投獄された。反乱が起こったのはその翌日でした。

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反乱の発端となった、エンフィールド銃の弾丸込め

 1857年5月10日、メーラトのシパーヒー部隊が蜂起し、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に教会・兵営・住宅等を襲い、イギリス人を殺害してその財産を奪い、自分達の仲間が拘留されている監獄を襲って抑留者を解放すると共にシパーヒーは、その夜のうちにデリーに向けて進撃します。

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バハードゥル・シャー2世(بہادر شاہ ظفر, Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)

 翌日反乱軍がデリーに到着すると、デリーのシパーヒーや市民も反乱に加わり、反乱軍はたちまちこの町を占領すると、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~58年)を擁立し、有名無実になっていたムガル皇帝の統治復活を宣言しました。

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反乱軍のシパーヒー

 ムガル皇帝の名でインド各地に反乱を呼びかける檄文が送られると、たちまち各地で反乱が連鎖し、北インド全域に及ぶ大反乱に発展、イギリスのインド支配は崩壊するかに思われました。
この反乱には、イギリス支配に不満を持つ旧支配層や近代的な地租制度によって没落した地主・土地を失った農民・綿織物工業の没落で職を失った職人など広範な階層の人々が加わりますが、反乱軍には統一された組織がなく、まとまった目標も存在しなかった為、イギリスが態勢を立て直し、多くの藩王(地方の王侯)を味方につけて反撃に転じると反乱は個別に撃破され、鎮圧されていきます。

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降伏するバハードゥル・シャー2世

 デリーは、1857年9月に陥落し、ムガル皇帝は捕虜となり、その息子達は処刑され、翌1858年3月にもう一つの反乱の拠点であったラクナウも陥落し、8月にはムガル皇帝は廃位されてビルマに追放され、300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は終に滅亡します。

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反乱軍兵士を砲に括り付け、木の弾丸を発射する英軍による見せしめ

 1858年8月、東インド会社はシパーヒーの反乱を招いた責任から解散させられ、11月のヴィクトリア女王宣言によってインドは本国政府の直接統治下に置かれる事と成りました。
デリー、ラクナウ等の拠点を失った後も、インド人は各地でゲリラ戦を展開しましが、1859年4月には頑強に抵抗してきたアウドの反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインド大反乱はほぼ完全に鎮圧されます。

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ヴィクトリア女王にインド人の格好をしたベンジャミン・ディズレーリがインド帝冠とイギリス王冠の交換をする風刺画

 イギリスは既に反乱中の1858年にインドを本国政府の直接統治下に置いていましたが、1877年にはインド帝国(1877年~1947年)の成立が宣言され、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる事になります。
インド帝国は直轄領と大小500を越える藩王国(イギリスの支配下で旧地方王侯に内政権を与えて藩王国とした)とから成り、以後イギリスはこれら保守的な藩王国を保護しつつ、巧妙な分割統治によってインドの植民地経営を遂行します。

ジョークは如何?

食べたいのなら上海へ行け
おしゃれしたいのなら香港へ行け
稼ぎたいのなら東京へ行け
叫びたいのならソウルへ行け
死にたいのなら平壌へ行け

続く・・・

2017/03/14

歴史を歩く150

35南アジア・東南アジアの植民地化

1イギリスのインド支配

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プラッシーの戦い・イギリスと内通したジャアファル

 1757年にプラッシーの戦いで、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破したイギリス東インド会社軍は、同じ頃南インドでも3回にわたるカーナティック(カルナータカ)戦争(1744年~63年)でもフランスを破って支配領域を広げて行きました。

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初代クライブ男爵ロバート・クライヴ
(Major-General Robert Clive, 1st Baron Clive、1725年9月29日 - 1774年11月22日)


 プラッシーの戦いで活躍したクライブ(1725年~74年)は、翌1758年に初代ベンガル知事となり、イギリスのベンガル支配確立に努め1760年に帰国し、男爵の称号を贈られました。
その後、ムガル皇帝とベンガル太守が反抗すると、イギリスはこれを制圧し(1764年)、翌年クライブを再度ベンガル知事に任命し(在任1765年~67年)、その直後にイギリス東インド会社はムガル皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの一部を含む広範な地域の地租徴収権と裁判権を獲得します。

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インド人傭兵(シパーヒー)

 こうしてイギリス東インド会社は、ベンガル地方を中心に広大な会社領を領有し、住民から地租を徴収し、イギリス兵と現地で採用したインド人傭兵(シパーヒー)で編成した軍隊でこれらの地域を支配するようになり、対インド貿易を目的に商業活動を主眼として設立された東インド会社は植民地の統治を兼ねた政治機関に変貌していきました。

 其の為イギリスは1773年にインド統治法を制定し、ベンガル知事に代わってベンガル総督を設置し、ヘースティングズ(1732年~1818年)が初代ベンガル総督に就任しました。

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シュフランと面会するハイダル・アリー

 こうしたイギリス勢力の進出に対して頑強に抵抗したのが、南インドのマイソール王国で、当時のマイソール王国には英主ハイダル・アーリー(在位1761年~82年)とティプ・スルターン(在位1782年~99年)が出て、4回にわたるマイソール戦争(1767年~69年、1780年~84年、1790年~92年、1799年)でイギリスと死闘を繰り広げましたが、イギリスはこれ等の戦いに勝利を納め、南インドを支配下に治めました。

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第2次マラーター戦争、アッサイェの戦い

 又中部インドには好戦的なヒンドゥー系マラータ族の諸侯がマラータ同盟と呼ばれる封建的な連合体を形成して反ムガル・反イギリスの立場をとっていました。
マイソール戦争に連勝し勢いに乗るイギリスは、3回にわたるマラータ戦争(1775年~82年、1802年~05年、1817年~18年)でマラータ同盟を崩壊させ、中部インドを支配下に治めます。

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インドにおけるイギリスの植民地獲得の変遷

 更にイギリスは第1次アフガン戦争(1838年~42年)以来、西北インドに進出を謀り、パンジャーブ地方のシク教徒を2回にわたるシク戦争(1845年~46年、1848年~49年)で破り、西北インドを支配下に治めると共に略インド全域に領土を広げました。

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ザミンダール

 イギリスはインド支配を進める中で財源の確保を図る為に18世紀末から19世紀初頭にかけて新しい地税制度を導入し、ベンガル地方を中心とする北インドではザミンダーリー制と呼ばれる地税制度を実施しました。
ザミンダーリー制は、イギリスがザミンダール(旧来の地主・領主層の呼称)の土地所有権を認め、彼等を地税納入の直接責任者とした制度で、この制度よって農民からの徴税が確実になり、東インド会社の税収は飛躍的に増大しましたが、地主支配が強化され、農民はサミンダールの収奪に苦しめられることになります。

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反乱軍のシパーヒー

 南インドではライヤット(農民の意味)に土地所有権と同時に納税責任を負わせるライヤットワーリー制が実施され、この間、イギリス本国では産業革命が進展して産業資本家が台頭すると、彼等は東インド会社によるインド貿易の独占に強く反対するようになり、1813年に東インド会社の茶以外のインド貿易独占権が廃止されます。

 更に1833年には東インド会社のインドに対する商業活動が全面的に禁止され、東インド会社はインド統治権だけを持つこととなり、完全にインド統治機関と成り、又ベンガル総督はインド総督と改称されました。

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イギリスのインド 貿易概念図

 19世紀に入ると、イギリス製の安価な機械織りの綿布がインドに輸出されるようになり、1820年頃にはインド産の綿織物との地位が逆転しました。
以後イギリス綿織物のインドへの輸出は急激に増加し、19世紀中葉にはインドは、イギリスが輸出する綿織物の4分の1を輸入するようになり、インドの伝統的な手織りの綿布産業は壊滅的な大打撃を受けます。
こうしてこれまではイギリスに綿織物を輸出していたインドが、イギリス製工業製品の販売市場・原料供給地に転落し、綿花・藍・ジュート・茶・アヘン等の輸出作物の栽培を強制されるようになりました。

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イギリス ロンドン東インド会社 本社

 イギリスは、英語教育の実施・イギリス的司法制度の導入・近代的な地租制度の採用・道路網の整備・鉄道の敷設等或る意味ではインドの近代化を進めましたが、これ等は何れもインドの植民地化を進めるための政策でした。

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カースト制度基本構造

 イギリス人はインドを遅れた社会と考え、これ等を文明化することが使命であると考え、カースト制や不可触選民の惨状・幼児婚・寡婦の殉死と再婚禁止の風習・インド女性の地位の低さ等インドの「憂うべき」インド問題を解消する為にはインド人の道徳・習慣・思考法をヨーロッパ流に変えていかなければならないと考えたのです。

 しかし、この為にインドの伝統的な社会慣習や生活基盤が破壊され、インドの自給自足的な村落社会は崩壊し、其の為支配者の地位を追われた王侯貴族から、職を失った手工業者・重税の取り立てに苦しむ農民に至る広い階層に跨るインド人の間にイギリスに対する不満と反感が広まって行きました。

ジョークは如何?

とあるホームパーティの席で。ゲストの毒舌男が料理を批判して「ひどい食い物だ。
これじゃ豚の餌だね」
すかさず女主人が「あら、じゃあもっと貴方にご馳走しなきゃ」


続く・・・


2017/02/12

歴史を歩149

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒④

4イランとアフガニスタンの動向

 イランでは、18世紀前半にサファヴィー朝(1501年~1736年)が滅亡し、以後アフシャール朝(1736年~96年)ザンド朝(1750年~95年)の短命な王朝が続きましたが、18世紀末にはカージャール朝(1796年~1925年)が成立します。

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カージャール朝と周辺諸国の位置関係

 カージャール朝はトルコ系王朝でテヘランを都とし、19世紀前半に2度ロシアと戦って敗れ(1812年~13年、1826年~28年)、トルコマンチャーイ条約(1828年)を結んでロシアに東アルメニアとコーカサス地方を割譲し、治外法権を認めました。
ロシアに領土を奪われたカージャール朝は東方のアフガニスタンに向かって進出をはかり、1832年~57年にかけて3度ヘラートを攻め、3度目には占領に成功しましたが(1856年)、イギリスはこれをインドへの脅威ととらえてカージャール朝に宣戦します。
カージャール朝は此れに屈服してヘラートから撤退すると共に、イギリスにも治外法権を認め貿易上の特権を与えました。

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1800 年代のヘラート

 トルコマンチャーイ条約以後、カージャール朝の財政は破綻し、農民への税負担が増大しました。
こうした状況の中で1848年~50年にかけて封建制に反対し、外国勢力への屈従を拒んだイラン農民の反乱が起こります。
この反乱は、それに参加した貧しい農民、商人、職人等の多くがバーブ教徒であった為、バーブ教徒の乱(1848年~50年)と呼ばれています。

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バーブの霊廟(ハイファ)

 バーブ教は、イランのサイイド・アリー・ムハンマド(1819年~50年)によって1844年頃に創始されたイスラム教シーア派に属する神秘主義的宗教で、既存の宗教儀礼の廃止や男女平等、階級的差別の撤廃等を主張し、貧しい農民、商人、職人等の支持を得ました。

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サイイド・アリー・ムハンマド(1819年-50年)

 創始者のサイイド・アリー・ムハンマド(ミールザー・アリー・モハンマド)は、マフディ(アラビア語で救世主の意味)の出現を説き、彼自身をマフディに近づくバーブ(門の意味)と称したので、彼が創始した宗教はバーブ教と呼ばれ、バーブ教徒は各地で蜂起し、政府軍を相手に勇敢かつ頑強に抵抗しましたが鎮圧され、以後激しい弾圧、迫害を受けることになりました。
 
 サイイド・アリー・ムハンマドは反乱には直接関係しませんでしたが、自らマフディと称した為、既成宗教と秩序を破壊する危険人物とみなされて1850年にタブリーズ市民の前で銃殺されます。

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アフマド・シャー・ドゥッラーニー(Ahmad Shāh Durrāni, 1722年 - 1772年10月16日)
ドゥッラーニー朝の王に選出


 アフガニスタンは、10世紀以後ガズナ朝、ゴール朝、イル=ハン国、ティムール帝国、サファヴィー朝による支配を受け、又16世紀以後はインドのムガール帝国にその東半部を支配されてきました。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1724年~73年)は、イランのアフシャール朝のナーデル・シャーの傭兵隊長でしたが、ナーデル・シャーが暗殺された後に自国に戻り、国王に選出されてドゥッラーニー朝(1747年~1842年)を創始し、アフガニスタンの民族的独立を達成しました。

 しかし、19世紀に入ると、ドースト・ムハンマド(1789年~1863年、ドゥッラーニー朝宰相の家柄でパーラクザイ族出身)がドゥッラーニー朝勢力を駆逐してパーラクザイ朝(1826年~1973年)を創始します。

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撤退するイギリス部隊を襲撃するアフガン人

 先にカージャール朝で述べた通り、1837年にロシアの支援を得たカージャール朝が再度ヘラートを包囲攻撃すると、ロシア南下に加えて、支配権を確立したインドに脅威が及ぶ事を恐れたイギリスがこれに介入してアフガニスタンへ侵略し、第1次アフガン戦争(1838年~42年)に発展します。

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第2次アフガン戦争に参戦した第5ノーサンバランド・フュージリア連隊

 第1次アフガン戦争ではイギリスが完敗しますが、1856年にカージャール朝が三度ヘラートを攻撃するとイギリスは宣戦を布告してイランを屈服させ、アフガニスタンをイランから独立させ(1857年)、アフガン戦争は3回行われましたが(1838年~42年、1878年~80年、1919年)、イギリスは第2次アフガン戦争(1878年~80年)の勝利によってアフガニスタンの保護国化に成功しました。 

ジョークは如何?

「ネタにされる大統領はたいてい共和党だね。タカ派の多いこと」
「うむ、そしてネタにされる書記長は共産党と決まっている」

続く・・・
2017/02/12

歴史を歩く148

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒③

3オスマン帝国の改革

 第2次ウィーン包囲失敗(1683年)、カルロヴィッツ条約締結(1699年)以来、オスマン・トルコは否応なしにヨーロッパの軍事力の優越を認めざるを得なくなっていました。

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マフムト2世(Mahmud II, 1785年7月20日 - 1839年7月1日)

 18世紀末に即位したセリム3世(第28代皇帝、在位1789年~1807年)は軍事的改革を中心とする近代化改革を進めますが保守勢力の抵抗によって廃位されます。
しかし、セリム3世の改革はマフムト2世(第30代皇帝、在位1808年~39年)に受け継がれ、彼は横暴をきわめ、堕落したイェニチェリを廃止し(1826年)、西欧式軍隊を編成し、地方豪族の勢力抑制に努めました。

対外的にはギリシアの独立(1829年)とムハンマド・アリーによるエジプトの自立(1805年)・東方問題(1831年~40年)の激化を招いたのです。

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アブデュルメジト1世(Abdülmecid I, 1823年4月23日 - 1861年6月25日)

 マフムト2世の死後、若いアブデュル・メジト1世(1823年~61年、第31代皇帝、在位1839年~61年)が即位し、ギュルハネ勅令を発布して(1839年)タンジマート(1839年~76年)を開始します。

 タンジマート(アラビア語で整理、秩序の意味、恩恵改革と訳す)とはギュルハネ勅令に基づくオスマン・トルコの諸改革の総称で、タンジマートはオスマン・トルコの司法、行政、財政、軍事、文化等あらゆる分野にわたる西欧化による近代化改革であり、オスマン・トルコの旧体制から西欧式体制への移行を目ざした「上からの改革」でした。

 アブデュル・メジト1世は、1856年に再度勅令を発布し、領内の非イスラム教徒の社会的平等を確認しますが、タンジマートは旧勢力の反対に遭い志半ばで挫折してしまいます。

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ミドハト・パシャ(Midhat Paşa, 1822年10月18日 - 1884年5月8日)

 クリミア戦争(1853年~56年)後、ミドハト・パシャ(1822年~84年)を中心とする憲法制定を求める運動が起こります。
ミドハト・パシャは各地の地方官をへて二度宰相を務め、この間ヨーロッパを視察した経験から近代化の必要を痛感し、自由主義的改革に努めました。 
1876年にアブデュル・ハミト2世(第34代皇帝、在位1876年~1909年)が即位すると、ミドハト・パシャは宰相に任命され、ミドハト憲法を起草、発布しました。

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「カーヌーニ・エサーシー、Kanun-ı Esasî」(ミドハト憲法/オスマン帝国憲法)

 ミドハト憲法はアジア最初の憲法で、イスラム教徒と非イスラム教徒との平等、宗教別比例代表制による議会、責任内閣制、個人の自由等を定めた民主的な憲法でしたが、翌年露土戦争(1877年~78年)が勃発すると、これを口実にミドハト憲法は停止されてしまいます。

ジョークは如何?

とあるホームパーティの席で。ゲストの毒舌男が料理を批判して「ひどい食い物だ。
これじゃ豚の餌だね」
すかさず女主人が「あら、じゃあもっと貴方にご馳走しなきゃ」


続く・・・


2017/02/11

歴史を歩く147

34オスマン帝国支配の動揺とアラブの覚醒②

2アラブ民族の覚醒

 18世紀に入りオスマン・トルコ帝国が衰退していく中で、西アジアから北アフリカに至るオスマン・トルコの支配下のアラブ地域に於いて民族的な自立を求める動きが始まります。

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ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ
( محمد بن عبد الوهاب‎,Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 1703年– 1792年6月22日)


 18世紀中庸、アラビア半島でムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703年頃~91年)がイスラム教の改革を唱えてワッハーブ派を創始します。
ワッハーブ派は、スンナ派に対抗して原始イスラムへの復帰を唱え、ムハンマド以来の300年間が正しいイスラム教が行われた時期であるとしてそれ以後の全ての改革を否定すると共に、又極端な禁欲主義を説き、厳正な一神教に従ってコーランと預言者ムハンマドの言行に基づく知識以外は認めない立場を取りました。

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イフワーン Ikhwan(サウジアラビアの建国を支えた民兵組織)を従えたアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(2代目ワッハーブ王国(第1次)国王)

 ワッハーブ派は、中部アラビアの豪族サウード家と結んでワッハーブ王国(1744年頃~1818年、1823年~89年)を建設し、リヤドを都と定めました。
第1次ワッハーブ王国(1744年頃~1818年)は、オスマン・トルコから征討を命じられたエジプト総督ムハンマド・アリーによって1818年に滅ぼされます。

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アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
( عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود‎, Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud、1876年 - 1953年11月9日)

 サウード家によって再興された第2次ワッハーブ王国(1823年~89年)はリヤドを奪われて滅びましたが(1889年)、サウード家のイブン・サウード(1876年~1953年)が20世紀初頭にリヤドを奪回して再び復活し、1932年には国号をサウジアラビアと改称して現在に至っています。
尚、ワッハーブ派は現在のサウジアラビアでも支配的宗教です。

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ムハンマド・アリー・パシャ
( محمد علي باشا‎, Muḥammad ʿAlī Bāšā, 1769年? - 1849年8月2日)


 ワッハーブ派は、イスラム改革の始まりとなり、又アラブ民族主義運動の先駆となりました。
ナポレオンのエジプト遠征(1798年~99年)はアラブ民族主義運動高揚の端緒となり、ナポレオン軍敗退の混乱に乗じて、マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリー(メフメト・アリー、1769年~1849年)は実力によってエジプト太守(総督、パシャ)となり、エジプトの実権を握りました(1805年)。
ムハンマド・アリーはその後エジプト全土を統一し、行政、産業、教育、軍事の西欧化による近代化を進めます。

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 又、ギリシアの独立戦争(1821年~29年)でオスマン・トルコを援助してクレタ、キプロス島を獲得したムハンマド・アリーは、更にシリアの領有を要求して第1次エジプト・トルコ戦争(1831年~33年)を引き起こしてシリアの領有を認めさせました。
ムハンマド・アリーは、更にエジプト、シリア等の領土世襲権を要求して、第2次エジプト・トルコ戦争(1839年~40年)を起こし、フランスの援助を得てオスマン・トルコに大勝しました。
これを見たイギリスはロシア、プロイセン、オーストリア共に干渉し、ロンドン会議を開いてロンドン四カ国条約成立させ、この条約によってムハンマド・アリーは世襲領域をエジプト、スーダンに限定され、シリアを放棄させられます。

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スエズ運河・1869年11月開通

 エジプトでは、1840年代以後、イギリスを初めとするヨーロッパからの資本や製品の流入が増大し、列強への経済的従属が進みました。
特にイスマーイール(在位1863年~79年)がスエズ運河の建設、鉄道、用水路、工場の建設等の近代化政策を進めたために、これらの事業によってエジプトには莫大な外債が残されました。

 財政難に陥ったエジプトは、スエズ運河の株式をイギリスに売却(1875年)して財政難を切り抜ける事を思案しますが、外債の利子支払いも不可能となり国家財政が破綻し、イギリス、フランスの財務管理下におかれることと成りました。
1877年には国庫歳入の実に79%が債務返済に充てられる状態となり、エジプト農民は重い税負担に苦しめられ、農民が餓死する中でも税の取り立てが行われます。

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馬上のアラービー・パシャ

 こうしたイギリス、フランスの経済支配に対する反対闘争が各地で起こりますが、その先頭に立ったのがアラービー・パシャでした。

 アラービー・パシャ(1841年~1911年)は、農民出身の軍人でエジプト人将校の間で祖国党を組織して「エジプト人のためのエジプト」運動を進め、1881年には反乱を起こし、翌年には陸軍大臣に就任して自由主義的な憲法を発布させます(アラービー・パシャの反乱、1881年~82年)。

 1875年にスエズ運河の株式を買収していたイギリスは、アラービー・パシャの反乱が起こると彼の辞職を要求し、単独でエジプトに出兵してアラービー・パシャ軍を破り、エジプトを軍事占領して事実上の保護下に置きました。
アラービー・パシャの反乱は、エジプト最初の民族革命であり、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたアラービー・パシャの運動はその後のエジプト民族主義運動の原点となったのです。

ジョークは如何?

ポーランド人が鶏小屋に忍び込んだ
人気を察した飼い主が銃を構えて呼びかけた

「おい!そこに誰かいるのか?」
「誰もいません旦那様、おらたち鶏だけでがす」


続く・・・